真田沼田藩最後の城主となった信澄(兵吉)が幼少期を過ごした小川城址は、JR上越新幹線上毛高原駅から徒歩数分という距離にあります。車をご利用の場合は、専用の駐車場が用意されていないので近くの空き地や駅の駐車場を利用するのが良いでしょう。(施設前に自動車数台を置ける場所があります。ただしここが駐車場かどうかは良くわかりません。下写真参照)

〒379-1313, 月夜野 みなかみ町 利根郡 群馬県 379-1313

ゆっくり見て回っても30分程度の所要時間です。車椅子等は無理ですが4際程度の幼児でも一通り見て回れる感じです。ただし周辺は崖になっているので注意してください。

現地入り口に立ち上毛高原駅方面を見た道路。右手前に自動車数台が置けるスペースらしき場所。

向こうに見える青い看板と信号を左折すると、すぐに上毛高原駅です。

振り返ると、ちょうど名胡桃城の方向(少し西よりかも)へ国道が続いています。


現地入り口に立つ自動販売機と謎の建物。

道路向かい側には二の丸跡とかかれた看板。看板の周辺にはそれらしいものは見当たりません。

同位置から本丸方向を見たところ。深い堀の向こうに瓦屋根の小さな建物や白い看板らしきものが見えます。

本丸跡へ向かうには自動販売機脇の下り坂より堀のなかへ降りて行きます。

堀の最深部。結構深い堀で本丸を守っていたようです。

逆側も急な傾斜に続く堀が続いています。

本丸へ続く道。階段が作られているので子供でも安全に進めます。当然ですが当時は橋がかかっていたのでしょう。坂を登ると本丸です。国道からここまで徒歩1分。

結構小さい規模の本丸跡地。奥に碑が見えます。

右側の小高い(1m程度)の場所には看板と祠がありました。その脇は結構な崖(堀?)

左を見ると、国道から見えた瓦屋根の休憩所らしきものが見えます。

休憩所には詩らしきものが数点掲載されていました。

休憩所のすぐ脇(奥)を覗き込むと、結構な高さの崖です。やはり周辺は崖で防護されているようです。

以下の文章は休憩所の脇に立つ看板の引用です。

小川城由来

足利時代、此の地は小川郷として呉胡桃郷と共に村落が開け奥利根ひいては裏日本を扼す戦略上の拠点として重要なところであった。北上州の雄沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして此処に築城したのは明慶元年(一四九二)で箕輪城に先立つこと三十四年、京に在っては足利幕府の勢力もおとろえ各地に土一揆等の蜂起を見、世情は飢えに苦しんでいた。

 此の時、沼田景久はここに二男の次郎景秋を七百貫匁(約三五〇〇石)位といわれている知行を与え住まわせ、北毛経営を固めていたが、其の後、文亀二年(一五〇二)正月二十六日 二代城主小川三郎景祐はもとより素行優れぬ城主なるため度々の狼藉に城を追放され其の後赦免となる。又、大峰山岳林寺の開基等を行い反省の色あるやに見えたが再びの乱行や沼田本城への討入り等狼藉の果てに落命した。

 景祐敗死後は、弟秀泰が三代城主となり城を護る。 小川秀泰は勇将にして岡林斉と名乗り信望を集め沼田七騎の一人として其の名を馳せた。其の後、大永二年(一五二二)秀泰死去し其の子彦四郎景奥の代となり小田原の北条氏の勢力も次第に北関東の奥まった利根の地にも其の手を伸ばしてきた。 度重なる小競合ひの中で、彦四郎景奥の長子景季は若くして兵火のため焼死し其の時は永正十七年(一五二〇)九月五日の真夜中のことであった。

 更に、大永四年(一五二四)の戦斗には城は焼かれ大将景奥も煮えたぎる酢がめの中に落ちて戦死し家を継ぐべき子息なく其の門葉の北能登守南将監等城の修覆をなす。其の頃、上方より北面の武士(京都御所警備)浪人して此の地に来る。 即ち赤松則村の裔にして赤松捨五郎祐正と言う。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わり其の才を認められ後に景季の後家と女合せ上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗る。

 天文十六年(一五四七)三月十五日沼田勢との菩提木に於いての合戦に沼田勢は敗退逃走した。天正八年(一五八〇)三月 小川可遊斉は小田原の北条勢竝に沼田勢と菩提木に再度戦ひ、可遊斉の戦略にかかり大敗北をなし逃走し可遊斉の名声を残す大戦果をあげた。

 この報告を聞いた北条氏邦は大いに怒り同年十月数倍の兵力を以って小川城攻む。小川可遊斉以下将兵は激戦苦闘のすえ城は焼かれ多数の戦死者を出し、為に城をすて兼ねて用意の見城の柵にのがれ残りの将兵も続いて柵に入る。可遊斉は此の柵に在って指揮し大木大石等を投落し敵をなやますも七百米もの高山なれば水や糧秣等の補給困難にして、須摩野口より越後路へ敗走した。小川城には城代として小川氏門葉の一人 北能登守が居り真田昌幸の配下として天正二十年(一五九二)頃迄在城した。其の後何年か城代不明の時期を過ぎ沼田真田氏の五代城主となった幼名兵吉は寛永十五年(一六三八)より一八年間真田伊賀守信澄となり五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住した。

 其の後は廃城となり顧みられる事なく永い年月を草木の中に埋もれていた。

以上引用

本丸先端部分に立つ石碑。

木々の間から沼田市街地が見えます。5代目沼田城主真田信澄(兵吉)はこの景色を見て何を思っていたのだろうと考えてしまいます。

石碑の脇に進むと、その先に一段低くなった場所があることに気が付きます。

どうやら「ささ郭」と呼ぶ場所のようです。その先は再び崖で崖の下には利根川が流れています。

石碑脇とささ郭につづく部分にある石垣らしきもの。

木々に囲まれ静かで幻想的な雰囲気がたたよう小川城跡。地形以外に目立ったものは残っていませんが、開発されていないので当時のままであろう堀などは貴重な資産だと思います。