真田氏沼田藩 改易、一家離散
天和元年十一月二十二日(一六八一)は正に真田氏にとって魔の日であった。
この日老中より「伊賀守儀兼々不行跡にて家中困窮にいたらしめ百姓の難儀見るに忍びぬものがある。その上両国橋用材の件については言語同断の失態を演じてしまった。誠に許し難い不調法で大罪も甚だしい。よって領地は召し上げ、その身は奥平昌章にお預けを命じる。」と厳かに申し渡された。
覆水盆にかえらず、沼田領三万石は没収、信直はそのまま沼田へはか帰らず江戸より遠い山形の配所へ向うのであった。
この時、道中の駕篭は罪人を運ぶ唐丸篭のように外から網をかけられ見るに堪えぬ悲惨の状態であったという。
同時に一家すべて配流の身となり
文字通り一家四散となってしまった。昨日までは一国一城の主の眷族であった身が、今日は再び逢うこともできぬ生別れの悲嘆の渕に沈む。まこと武士の家に生れた厳しさに涙をしぼったことだったろう。
長男信就は江戸を去るにあたり元来栄辱都無智 華実同根枝皆離 昨日慶喜今日患 朱屛塚涙記愁詞 と詠じ、更にあずさ弓ひき別れ行く親と子の見し面影をかたみとはしてとうたって人の世の有為転変を嘆じた。
しかしこれら信直の子女は半年後に許され、後に嫡子信就もその再仕官の道が開かれるが十一年後の宝永四年(一七〇七)四十八才で病死。
実子がなかったので沼田真田家は絶えてしまうのであった。
一方主人公である伊賀守の身の上はとあれば、これは山形城主奥平家において一室を与えられ、病死するまで冬は木綿の布子、夏は木綿のかたびら、食事は一汁一菜という哀れな日々を送る。
信直をあずかった奥平昌幸は事件後四年を経た貞享二年、宇都宮に移封となるが、信直も共々同地へ移されそれより三年後の貞享五年(一六八八)一月五十四才をもって数奇な生涯の幕を閉じる。
幽囚の身にあって唯一つの救いは幕府より死の直前に罪を許されたことだろう。遺骸は江戸駒込吉祥寺に葬られ春林院殿前伊州大守 雄山崇英大居士とおくり名された。
ところがここに「沼田根元聞書」なる古文書がある。原本は鍛冶町田村司郎氏が所蔵されておるが、この書物(全二冊)いよると奥平能登守昌章が信直を遇する状態が大分異なって記述されている。
信直の身柄を委ねられた昌章は、一室を綺麗に仕立て仁愛をもって傷心の信直を処遇した。落ちぶれて今や袖に涙のかかるときこのような親切なもてなしを受けた信直は「貴殿の仁慈は心根に徹してありがたく存じます。私に運が廻りやがて赦免となったあかつきには、このご恩必ず報いるつもりです。」と朝夕申していたという。
そればかりでなく、ある日奥平家の門前に一人の侍が参り「私は伊賀守の家臣脇坂源五左エ門と申す者ですが、何とぞお慈悲をもって主人伊賀守へ対面の儀をお許しいただきたく伏してお願い申し上げます。」と訴え出た。
これを聞いて門番はこの由早速上役へ申し入れ、更に城主昌章に言上したところ昌章は「内々にて対面致させてよかろう。」と取計らってくれた。
源五左エ門は喜びに身を振るわして今は変り果てた主君信直と対面した。
伊賀守も涙を流し「家中の者数多い中にあってわざわざたずねてくれたのは其の方唯一人、しかし今更お前と逢うのも誠に面目ない。」と仰せられるのを受けて源五左エ門は「この様に内密に御前へ罷り出るのは誠に不届者と思召されましょうが、この度城請取の公儀御上使に対し万一非礼の段がありましたらそれこそご主君へのご難儀と考え、更には請渡しの方式も知らぬと笑われるようなことあればこれまた名誉高き真田家の恥辱と存じ、蟄居の身ながら罷出で、古式に則って城明渡しを完了いたしたことをお知らせ申し上げようとご対面の儀を申し入れたというわけです。幸いにもご当家の仁慈深きお取り計らいによって報告できまして私のよろこびこれに過ぎるものはございません。」と誠を面に表わして述べるのであった。
脇坂源五左エ門はかねてより真田家臣中でも剛直をもって鳴る男、そのためかって主君信直の怒りをかい蟄居を命ぜられたまま今回の異変となったのである。それだけに信直にしてみれば感じるところがあったわけだ。
源五左エ門なおも「家中の面々もそれぞれ身の振り方がつき、金子の配分も滞りなく終わりました。奥方様も御里方へお願い申上げ、その外残るところなく整理完了いたしました。唯今こうしてご報告ができましたこと家来の身としてこれに勝るよろこびはございません。
能登守様には色々のご配慮誠にありがとうございました。この上は主人の御先導をいたすべく一足先に冥途へ旅立つ所存、何とぞ次の間を拝借いたしたくこの段お許し下さるようお願い申し上げます。」と涙を流し平伏する様子を見て、能登守も目頭を熱くし「その気持はよくわかった。しかし切腹には及ぶまいぞ。」と止めるを聞かず源五左エ門は次の室で腹十字にかき切って果ててしまった。
やがて伊賀守の処置について能登守は老中に対し、付人の件を申し出たところ「伊賀守は武士道を弁えぬ者、その必要はなし。」と却下されたという。記述の信憑性ともかくとして、一応参考まで書き添えて見た。
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