戦国の時代における沼田城の存在価値は他の平坦部にある城とは意味が異なる。私達は城というとすぐに白壁造りの天守閣を中心とした城郭建築を連想するがそういったイメージの城はこの当時は安土城の外いくつもなくやがて徳川の時代となり城が領主の威勢を象徴する意味を持つようになってから急速に各地に構築されたと思われる。

勿論三方を急流に囲まれ、断崖をめぐらしている沼田の城そのものも重大な意義はあろうが、この城を中心として四方を峻険は山によって他所と隔絶された利根の郷一帯が堅固な要塞である点に大きい魅力があったのだろう。

自然天然の要塞であると共に関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝であったことも軍略的に大きい意義を認めたことと推察するが、この天恵の隠れ里沼田の価値は現在以上に当時は高く評価されていた見ても過言ではあるまい。

信長によって辛うじて保っていた小康も、彼の不慮の死によって早くも破綻を来たす。

信長が本能寺の変によって倒れたのが天正十年六月二日、早くもこの凶報を入手した北条氏は「時至れり」とばかり兵をひきいて厩橋(現在の前橋)に在った信長の家臣滝川一益を打ち破り上野をその手中に収めて、更に軍を転じて信濃に入り、進んでは甲斐に攻入って徳川家康と対陣した。

ところが北条氏はたちまち家康と講和するのだがその条件がいかにも北条氏らしく面白い。即ち今回往服した信州、甲斐の二郡を家康に与える代りに上野沼田を北条氏のものとして認めろ、又甲・信の地は家康の勢力範囲とし、上野の地は北条氏の領とするということも約された。時に同年十月二十日である。

考えればおかしな条約だ。なにも北条氏は徳川氏の了解などあろうがなかろうが一向かまわないのに、かくまで家康に有利な条件を与えたのは当然武力によって沼田を手中に収めんとすれば真田氏との一戦をさけるわけには行かぬ。仮にそうした状態になった時、徳川氏と和を結んでいれば少しも後顧の憂なく安心して積年の恨みをはらすべく真田氏と戦うことができる考えた打算からの措置である。

こうしてはじまった沼田城争奪戦は信長死後まもない頃より天正十七年七月まで血みどろの攻防戦が続くのである。武田亡き後一匹狼となった真田氏は今は誰にはばかる必要もなく天下の要害沼田鞍打城によって思う存分北条方を迎え撃つことが出来るのだ。織田氏の城代として沼田城に在った滝川儀太夫はすでに沼田を去っているので昌幸は直ちにそっくりいただいてしまった。

中央部にあっては信長亡き後、羽柴秀吉が新しい勢力として抬頭しはじめしきりと畿内及び近隣の旧織田氏勢力を平定しており、とうてい遠く関東の僻遠の地まで関心を注ぐいとまはない。正に真田、北条は何の拘束もないまま思い切った闘争を繰りひろげることができた。

その攻防戦は

第一に三田の前進基地である勢多郡北橘村樽の要害、及び敷島村猫の要害を中心とする戦い。

第二に同じく真田の前進基地である久呂保村(現在昭和村)長井城、及び同村阿曽の要害を中心とする戦い。

第三には沼須川原の決戦

第四には鞍打城を中心とする一大決戦、この本城中心の攻防戦は三回にわたって行われた。

とまことにすさまじいばかり、両軍は執念を燃やしてここ先途と繰り返された。

それぞれの戦いの詳細については沼田町史に述べられているのであえて重複はしないがともかくもあしかけ八年にわたる両氏の戦いによって利根、沼田は荒廃の極に達したと思われる。いや今回ばかりでなくかつての領主沼田氏が衰微してしてよりあるいは上杉、又北条、続いて真田と、目まぐるしい程支配者のとそれに伴う戦乱は約三十年も続くのである。察するに領民の生活は一日として生色なく、正に目を背けたくなるような状況だったろう。

こうして両軍しのぎをけずって相争ううちに中央部の情勢は大きく変化した。かつては信長の一家臣であった秀吉が今や着々とその地歩を固めてすでに天下人たる貫禄を次第に築きあげ、今や最後の総仕上げとして関東統一を志していた。その前途に大きく立ちはだかっているものに始祖早雲以来多年関東において勢威を張っていた北条氏の存在があった。

北条氏は遠くは伊勢平氏の流れを汲むが中途衰微し、伊勢新九郎と称していた長氏の代にいたり策謀によって忽然と城持ちになった話は有名だ。この人が後の北条早雲で以来代々の城主は傑物ぞろい、やがて小田原に宏壮な居城を擁して、関東一円に強大な勢力を温存していた。

こうした地力に支えられていた北条氏は、北関東に真田氏と陣をかまえていることのみに関心を注いで、中央部における秀吉の実力を正当に評価していなかったのではなかろうか。かつて同盟を結んでいた徳川家康も今は秀吉の幕下に馳せているのに北条氏はまだまだ自意識過剰というか、時代認識不足というのか秀吉から上洛して臣意を表すべき要求をつきつけられているのに直ちには服さなかった。まあ真田攻略に全力を注いでいる北条にあってはそうやすやすと返事もできなかったのであろう。しかし意の如くにならぬ真田に手を焼いていた北条氏にあって見れば先年徳川家康と約束したこともあり、ここは一番秀吉に真田説得の役を肩代りさせ、それを条件として臣礼を取るのも良策と叔父氏規を上洛させて、この件を秀吉に申し入れた。

おそらくこの時秀吉は「ころんでも唯は起きぬ奴め」と感じたことだろうが、そこは練達の秀吉、早速昌幸に命じて沼田の地を北条氏直に返還させ利根川を境として東岸は北条、西岸は真田に領有せしめることとした。

又もや真田氏に巨大な圧力が加えられた。いやもおうもない立場に追い込まれた真田氏は過去八年に亘る血みどろの戦いの結論として涙を飲んで沼田城明け渡しを実行するのであった。かつて北条氏の大軍を一手に引き受け最後まで沼田城を死守した真田氏城代の矢沢薩摩守頼綱は今は静かに吾妻岩櫃城へと引上げ、その代りとして北条氏の城代猪俣猪能登守が意気揚々と沼田城へ入って来た。時に天正十七年(一五八九)七月のことである。

この辺のやりとりが秀吉の偉大なる政治力ともいえようが、北条氏にとっては多年に亘る紛争が一挙にして解決した喜びはかくせないものがあったろう。しかしこの喜びも長くは続かなかった。勇躍沼田へ乗り込んだ城代猪俣能登守はこの年十月主君北条氏直の関知しないまま利根川対岸の真田領である名胡桃城を不法にも攻略した。この事実は昌幸より直ちに秀吉のもとに報ぜられたからたまらない、秀吉は自分の裁定を踏みにじった北条氏の不信を責め、翌天正十八年四月大兵を率いて小田原城を攻めた。

真田昌幸はもちろん秀吉の心証を有利のものとした。

このあいだの事情はあえてくどくど述べる必要もないが秀吉、昌幸は共に計画路線に従って行動したと思われるが、ひとり北条氏は大局を誤ってあたら名家を滅亡にみちびいたのである。戦はじまって三ヶ月さしもの小田原城も陥落し七月六日開城となり、それぞれ論功行賞が行われたが、その中で特筆大書すべきことは、改めて秀吉より昌幸に沼田城を与えた事実である。

かくして宿願は達成され名実共に沼田の支配者となった真田昌幸は、かつてこの城を領有していた北条氏城代を追放してから今日までちょうど十年、幾多の紆余曲折を経て、再び沼田台上立ち利根の山河を改めて眺める感慨は果していかなるものであったか。これはひとり昌幸のみでなく従う将兵みな等しく長く、しかも厳しかった過去を思い、悲願達成の喜びをかみしめて万感胸に迫る想いであったろう。

しかしながら現実面に立ちかえって見ればそこには数十年にわたる戦乱に打ちひしがれた哀れな領民の姿と荒れ果てた耕地目にいたい。あの山にもこの川にも真田一族の血がにじみ、

正に夏草やつわもの共が夢のあと  芭蕉

の感慨の通り一木一草にいたるまではらからの執念がこもっている。かくして新しい沼田の建設に激しい意欲を燃やした第一歩が踏み出されるのだが、そのころ中央部においても秀吉の天下統一の偉業が完成するのと相まって近代日本、いや近代沼田の歴史の一ページが始まる。

時に天正十八年(一五九〇)、今を去る三百八十六年前のことである。