現在人口四万六千(昭和五十一年)、関東北部の交通の要点として発達した沼田市のそもそもの発祥は、今を去ること約四百六十年前、即ち永正十六年(一五一九)に沼田氏が柳町地先幕岩に城を構えてからであるが、それは単に開拓の一歩を踏み出した程度のことで、現在につながる城下町としての沼田開発は真田氏が領主となった時点から始まる見てよいのではあるまいか。

真田氏が名実共に沼田の支配者となったのは天正十八年(一五九〇)、以来五代九十一年にわたって鋭意沼田城下の整備につとめ、政治に、産業に、文化に飛躍的な発展をとげ、現在の沼田市の骨組みが形成された。

今日私達が沼田を称して「由緒ある古き城下町」というなら、実はそのイメージは真田氏領治時代の残影を偲んでのことである。

真田氏は不幸にして五代信直の失政によって領地没収、城郭破壊となるが、以来沼田の統治は代官、本多、黒田、土岐と続いて明治維新にいたる。しかし本当の意味の領主としての存在は真田氏にとどめをさす。真田氏以外の大名は殆んどすべてが徳川幕府の役人をつとめ、領地統治は兼任にしか過ぎない。いいかえれば沼田は幕府の出張所となり、領主は地方事務所長的性格を帯びた官僚であったと見たい。従って幕府の人事交流が行われると沼田の殿様は直ぐに転任になる。極言すれば腰掛け大名で、所詮沼田の地はこれらの人の墳墓の地とはなり得なかった。

こうした事情にひきかえ真田氏は、事実この沼田を終生の地と定めてあらゆる方面に全力をあげて経営につとめた。

真田氏が沼田の地に触手を伸ばしたのは天正八年(一五八〇)からである。当時は真田氏は甲州武田氏の一武将として利根へ兵を進めたのであるが以来十年にわたって北条氏と争い、その間一族郎党の血は利根の地に少なからず流している。そうした因縁によって入手した利根、沼田は幕命によってこの地に移封して来た他の領主とは根本的に異なった深い関係によって結ばれている。

今真田入城以来明治維新にいたる二百八十年間にわたる各領主の領治期間をグラフによってしめして見ると次の図のようになる。(本多、黒田の間に二年の代官政治時代があるがこれを省略する)

更に又興味ある数字を揚げて見よう。去る昭和二十七年に刊行された、石田文四郎先生編の「沼田町史」をひもどくと、その各領主の事蹟を述べているページ数が

・真田時代……… 一五ページ
・代官時代……… 一四ページ
・本多時代……… 一六ページ
・黒田時代……… 四ページ
・土岐時代……… 三七ページ

となっている。各領有時代の年数が異なるので一概に比較はできないが、それにしても真田時代についての記述は圧倒的に多い。この事実は何を物語っているか。

いやしくも史家たる人が記述にあたってえこ、ひいきするなど毛頭考えられない。これは一にかかって記述するに足る事蹟や資料の多寡によりものである。

現代の沼田の生活に直接関係を持つ様々の事象の殆んどが、真田氏一世紀に亘る政治の所産であることより、真田氏なくして今日の沼田はありえず、沼田を語るに真田氏を除いては骨抜きとなってしまう。だからこそ石田氏の場合でもその例外ではあり得なかったのだと推測する。