真田家沼田領主相続問題
◯沼田領主相続問題
◯沼田3代城主真田熊之助
◯二度目の領主相続問題
◯信幸の裁断
◯沼田四代城主真田信政の政治
沼田領主相続問題
沼田領主二代真田信吉は寛永十一年(一六三四)七月参勤交代で出府中にほうそう(天然痘)にかかり、同年十一月二十八日、江戸小石川の藩邸において四十才を一期として死去した。
そこで問題となったのが後継者を誰にすべきかということである。信吉は夫人との間に女子が二名あり、長女は早世し、次女の国女(後の高貞院)があったが肝心の相続さすべき男子がいない。当時大名の家においては後継者はいない場合断絶というきびしい制度があったから、沼田藩の場合もこのままでは命とりとなる危険がある。
いささか余談となるが、大名において最も恐るべきことは後継者がいないという場合である。だからたとえ妾腹でもなんでも男子をもうけるということは絶対の必要条件であって、昔の殿様が多人数の妾を抱えるのは一つの自衛手段でもあったわけだ。その反面正式の奥方にも男子があり、妾にも男子が生まれや場合、それぞれ後継者の座をねらい相争ういわゆるお家騒動も起り得る場合もあった。
一夫一妻制は昔も今も変わりはないが、お家安泰を守るためには奥方のスペアーを用意しておくのは一種の必要悪で、必ずしも道徳観のみで割り切れる問題ではなく、単に領主の女色好みばかりとはいえなかった。もちろん権力の座にあって恣意のおもむくまま振舞う例もあったろうか……………。
徳川家康が政治に関する注意を百箇条定めた「御遺百箇条」という古文書があるが、この中に
妻妾の差別は君臣の礼をもってすべし。
妾は天子に十二妃(き)
諸候に八嬪(ひん)
大夫に五(しょう)
士に二妾(しょう)古聖これを礼記にしるすも、古今の常典なり。
愚者はこれにくらく、愛妾のために本妻をないがしろにし、大倫を乱る。古の城を傾け、国を亡ぼす者皆これより出ず。戒しむべきなり・これに溺れるものは忠信の士に非らずと知るべきことなり。と誠に懇切丁寧に指示している。
さて沼田においては信吉亡き後次代領主をどう定むべきかが論議の中心とばり、てんやわんやの評定が繰り返された。昔も今も変わらないのは自分自身の保身のため、しかるべき権力者と特別の関係を持つべく暗躍につとめる連中がいることだ。
幸い信吉には妾腹ながら、熊之助、喜内という二人の男子があった。そこで後継者に熊之助を推す一派と、他方信吉の弟信政を擁立しようとする一派と、家中二つに分れて互に主張する騒ぎがもちあがった。
熊之助は信吉の子とはいえ当時わずかに三才である。一方弟の信政は三十九才の働き盛り、両者を比較するに、たとえ年は若くとも長子相続を主張する正統論者と、いやたとえ弟であっても沼田藩を統治できる実力者を推戴すべきと主張する現実主義者と、互にゆずらぬ論争があったことは当然考えられる。その一つの証拠としてやがて熊之助が三代沼田城主として家督を相続するまでに約一年の空白がある点と、当時松代にあった信幸がはるばる沼田まで来て世継問題に介入している点があげられる。
幸い今回はさしたる深刻な問題にまで発展しないうちに三代城主は熊之助
信政はその後見役ということで一応落着したものの、多少の家臣問におけるしこりはいなめなかったと思う。それは又、いつの日か異なった形において再燃するであろう予測も当然考えられる。
このあたりから沼田における真田氏の命運にそろそろと暗い影が漂ってきたのではあるまいかと推測すると共に、幕府における真田氏に対する考え方も変ってきたのではないだろうか。
徳川、豊臣両勢力が互に拮抗し、天下の風雲いまだ定まらぬ時代にあっては、真田信幸及び沼田の城という存在は徳川方にとって極めて有利であったが、関ヶ原の戦以後、幕府の基礎も固り天下統一の実があがった時点においては、外様大名の雄である真田氏の存在はいささか目ざわりであり、ましてや関八州北部の要地沼田において五層の天守閣を誇る真田の堅城は誠に気にかかる。
信幸は沼田から上田へ、そして更に松代へ移された原因にはこんな点の考慮があったのかも知れない。
たしかに表高の石数は増大していったから一応は栄進とも見られるが、実収においては必ずしも数字通りではなかったといわれる。
松代に移ってから信幸は「めぐりを全部譜代の大名に固められて、これではどうも………。」とつぶやいたとか。勿論信幸には徳川に刃向う気持ちなど毛頭なかったろうが、何か目に見えぬ幕府の圧迫は信幸を苦笑せしめた。
信幸は有能なる政治家であると共に利財の道にもたけており、沼田、上田領有時代に蓄積した黄金はぼう大なものであったという。
松代は十万石とは名ばかり、実収じゃ六万石程度だったというがその金蔵には土台の石垣がめりこむ程黄金が貯えられていたと伝えられるその内容は旧領地からの持ち込みであったのである。
そんな事実を幕府が見のがすわけもない。やがてはいろいろの名目の下に幕府は殆どを接収してしまうのであるが、それは後譲り、今回の沼田における相続問題は幕府にとってはむしろ歓迎すべき真田に内紛と解したことだろう。
沼田三代城主真田熊之助
熊之助城主となったのは寛永十二年(一六三五)十二月五日、年わずかに四才である。
三代城主といっても年わずかに四才の熊之助に政治上一体なにができよう。すべては叔父信政の後見によってとりしきられたのである。
この信政という人は兄信吉の温厚なる人柄に比べてやや奔放なる性格で、若い時は素行が悪く父信幸の信用がなかったといわれるが、それだけに行動派出会ったと思われる。兄のわすれ形見熊之助の成長を待つと共に、藩政上における実力を次第に高めて行った。
ところが熊之助、城主に就任以来わずか在職三年にして七才の時江戸で死去してしまった。
葬儀は迦葉山弥勒寺でとり行われ、法名一陽院殿梅心玄香大童子という。ここにおいて四代目城主相続問題が再びおこった。
二度目の領主相続問題
熊之助早世に伴い、再び沼田の城内において跡目相続の大論議がはじまった。今回は先の信吉死去の場合とはいささか条件が異なるわずか七才では子どものあろうはずはなく、このため当然後継者は縁続き
の者から選定すべきで、ここが議論のはじまるもととなる。
正論からいえば同じ妾腹ながら喜内(当時は兵吉と改名)をすえるのが当然だが、年はわずかに五才である。
先に熊之助が跡目相続したのは四才という例から見て、年少であることは問題はないにしても二代も続いて幼君を推すのはいかにも藩政上好ましくない。もう幼君をいただく苦労は身にしみていると説く一派と、いや、何が何でも喜内が後継者であるといきまく一派と、更には又、たとえ血統的には逆のぼるとも信政をこの際跡目に据えることが妥当ではないかと主張する一派と、それぞれゆずらず、論議に火花を散らす毎日であった。
問題は兵吉、、信政をめぐって難航した。加えて先の相続問題以来一応は沈潜していた家臣間の思惑がまたぞろ抬頭し、重臣間においても暗中策動がはじまった。
ここで注意しなければならないのは、一口に真田家の家臣といっても、その内容においては一律ではない点である。遠く真田に隷属したものも居れば、真田が信州に居たころからの家の子郎党的のものもいる。これらの家臣は平時においても何等かの形において互に拮抗していたのは当然考えられる。
この様な異質の家臣を統率し、事なきよう配慮するのが領主たるものの責務であり、実力でもあるのは何も真田家ばかりではないが、信幸去って後の沼田においてはことごとにくすぶりつづけてきた家臣間の反目が、ことあるごとに表面化してくるのが何としても悩みの種である。仮に今回の相続問題を契機として家中離反分裂し、相争うようなことになればそれこそお家の一大事、幕府より咎あるのは必至である。
こう考えると松代にある信幸は一刻の猶予もなく、再び沼田へと旅たつのであった。七十三才の老駆に鞭打ちながらもはるばる沼田まで出向き采配を振らねばならぬ信幸の心情を思うとき何か、ふたむきの親心に打たれるものがある。
信幸の裁断
三年前も相続問題で沼田まで出かけ、今又同じ問題でこうして再び沼田の地を踏む信幸の姿に関係者並びに家中一同はどんなまなざしをもって接したろう。白堊五層の天守閣は変わらずとも人の心は時と共に移って行く。
各人各様の思いで老祖信幸の裁断を持つ沼田藩は異常なまでに緊迫した雰囲気に包まれていた。
信幸は道々心ひそかにある決定策を考えていたろうが、こうして目のあたり接する家中の面々の自分に注ぐ無言の訴えを考えるとき何か事態は極めて急迫したものとして感じられた。今はあれこれ考えているべきではない、唯「断」の一字あるのみである。そこで信幸は現在領内統治の実権を握っている二男信政を跡目相続人として決定した。
この裁定に対してもちろん不服なのは兵吉とその母小野のお通であり、又それをめぐる家臣達であった。そこで信幸は兵吉母子を呼び厳然と左の項目をいい渡したのである。
●熊之助亡きあとは当然兵吉に相続さすべくであるが、何分にも幼少であり、先に熊之助の実例もあるので時に信政をして沼田城の後をつがせる。
●その代わり所領三万石のうち、信政には二万五千石、兵吉には部屋主料として五千石を与える。
●兵吉母子は、月夜野小川城址に新たに館を建てそこに引移って住むこと。
●亡父二代信吉がたくわえた軍用金は兵吉成人の後譲るとし、それまで祖父信幸が預かっておく。
一見年端も行かぬ兵吉に対する処遇としてはいかにも手厚いものと思われるが、沼田城主の立場と比較するときに正に雲泥の差であるから、兵吉母子その他の連中はあまりにも片手落の処理とばかり心中不満に堪えなかったが、老公鶴の一声には返す言葉もなくそのまま引下がる外はなかった。
唯心頼みとするのは、時に信政に委ねるもそのうちには………という含みのある言葉と、多額の軍用金も一時あずかりで成人の後は引渡すという約束だけである。
やがて新館も出来て、兵吉母子はそこへ引移ったが、月夜野の里から南沼田の高台に聳え立つ天守閣を見るいつけ心安らかならぬものがあったろう。時に寛永十六年(一六三九)の初夏であった。
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