真田信幸上田より松代へ
沼田より上田へ、更に上田より松代へと転々と移封される理由は一体なんであろう。
確たる証拠もないが
(一)
武勇と智謀に富む信幸を、次第に江戸より敬して遠ざける。
移封のたびに加増となっているところから、諸国の大名に対する思惑もあり、幕府としては随分考えての処置と思われる。
(二)
経済力豊かな信幸を父祖伝来の上田城にいつまでもおくことは、なにか幕府にとっては心がゝりとなる。
事実信幸の蓄財は莫大なものであった。上田と沼田と併せて九万石とはいえ、実収は十八万石に相当したといわれる。そのため信幸がたがて松代城の櫓の石垣が金の重さでめりこんでしまったという話もある程で、信幸の死後その遺金は三十万両を超える金額であったという。
(三)
秀忠としては、関ヶ原の戦の際、上田城攻略に大失敗をした苦汁が忘れられない思い出あったと思われる。いささか個人的な感情論になるが将軍となった今日、信幸が上田城主として充実する状況は好ましい ことではない。
信幸がその時の戦に秀忠に従い参戦して心苦しい立場に追いこまれたいきさつは本誌五号に述べた。
(四)
所詮は幕府という大きな組織による高度の政治的配慮のしからしむるところであろう。
当時はまだまだ豊臣関係の外様大名が厳存しており、これらに対する幕府の方針は複雑にして、しかも慎重であったと考える。
信幸が上田を去り、初代松代城主となったのは五十七才の時出会った。上田在城はわずか六年という短期間であるが、現在でも上田の人々は真田氏を慕う気持は強烈なものがある。
信幸の父、昌幸その子信繁(幸村)によって築かれた上田城を中心とするこの町は、治政の期間の長さからいえば信幸松代移封後領主となった仙石氏、次の松平氏の方がはるかに長いのに、不思議と「松平氏の城下町」とはいわず「上田は真田の城」と思い続けている。
信幸は関ヶ原の戦以後、家代々のゆずり名である「幸」の字をはばかって「信之」と改めた。だから上田、及び松代では信幸とはいわず、すべて信之と記している。
さて松代へ移った信之は、それより三十六年の長きにわたって沼田、上田同様、名君の名に背かぬ善政を行ったが、明暦二年(一六五六)九十一才の時、当時沼田の城主をしていた次男大内記信政を召して、これに松代を譲り、おのれは一当斎と号して川中島へ隠居した。
二年後の万治元年十月十七日(一六五九)九十三才の天寿を全うして波瀾の生涯を遂げた信之が、松代の北方、大鋒寺に静かに眠っている。
大鋒院殿鉄巖一当大居士
しかし真田氏の系統はその後も松代に続き、当主幸治氏は信之より数えて十二代目にあたり、脈々と名家の血筋は伝わっている。
それなる故、松代には真田氏に関係する史跡、遺品は厳然として残っているが、これに比べて同じ真田由来の地沼田をふりかえって見るとき索漠の感を免れない。
沼田の真田氏は五代にして完全に壊滅してしまった。しかし信幸時代の町割りの俤はいまだ残存しているが、これとしても都市計画の名のもとに次第にその影を失せつゝあるのが現状である。
沼田、松代、共に信幸の開発した町なので町名に共通したものがいくつかある。
鍛冶町、中町、馬喰町、伊勢町
などがそのよい例だ。発生の由来等を思うとき、むしろ沼田は実質的には松代と姉妹都市というべきであろう。
追記
この宝筐印塔形の墓が大鋒寺にある信之の葬られてあるところ。同寺には、束帯を着けた信之の木像と、舎利(遺骨)及び弓矢等が保存されて在りし日の英姿を偲ばせる。
その死に当って家臣鈴木右近忠重は殉死し、その他三人の武士が剃髪して長く信之の菩提を弔ったという。
信之は
初代 沼田城主
二代 上田城主
初代 松代城主
と三転した、誠に珍しい経歴の持主である。なお、松代には真田家の菩提寺、だなさ山長国寺という曹洞宗の寺があり、その奥に霊廟がる。
この霊屋は最も結構を極め、構造は撞木屋根唐破風付、屋内は青丹金碧さん然と輝き、さながら日光東照宮を連想させる豪華絢爛たるつくりである。
特に欄間を飾る花卉鳥獣の彫刻は精巧、緻密、見る人の目を篤かせるもの、更に壁画、天井画は狩野探幽の作、又破風を飾る鶴の彫刻は名左甚五郎作と伝えられる。
この鶴は毎夜舞い下りて稲を喰い荒すので鎖でつないだところ、やっと収ったという話がある。尤もこの種の話は全国いたるところにあり、信はおけないが、とにかく素晴しい建造物で、真田氏の遺風をいやという程味わせる。
同じ霊屋(おたまや、みたまや)でも、沼田正覚寺にある信幸夫人大蓮院のそれは、すでに廃屋同然である。信幸後五代目の信直の失政によって沼田における真田氏関係の一切は潰滅状態となり、墓所も当然は荒れるにまかせる状態だったのだろう。なにかそのあたり真田氏に対する執拗なまでの幕府の態度がうかがわれる。
沼田における藩政時代の中心となるものは真田氏であり、真田氏の中でも特に焦点となるのは初代信幸と五代信直であろう。その意味からも信幸については特に重視した。
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