第一期代官時代

代官による沼田領統治は、細かく分けると次のようになる。

・初代代官 竹村惣左エ門  熊沢武兵衛 天和二年(一六八二) 貞享三年(一六八六)  五ケ年

・二代代官  島村惣左エ門 貞享四年(一六八七) 元祿三年(一六九〇)  四ケ年

・三代代官  稲葉平右エ門 元祿四年(一六九一) 元祿六年(一六九三)  三ケ年

・四代代官  竹村惣左エ門(重任) 元祿七年(一六九四) 元祿十三年(一七〇〇) 七ケ年

・五代代官  中川吉左エ門 元祿十四年(一七〇一) 元祿十六年(一七〇三)  三ケ年

以上 五代  二十二ケ年間

以上が第一期代官政治の概要である。第一期というのはやがて本多氏時代の後、僅かに二ケ年であるが再び第二期の代官政治が来る関係からである。

第一期二十二年間にわたる代官政治時代については、「沼田町史」編集の石田文四郎氏が当時誠に資料記録に乏しく記述してみようがないと概嘆されたが、正にその通りである。

二十二年間の幕府直轄の代官政治によって真田氏の残影は尽く消滅し、全く新しい時代に転換された。

その間に民生も復興の一途を辿り、利根の地に明るい日ざしが差しこんできたものと思われる。

唯一つ、不思議なことに町人自治のための役方「検断」だけは元真田氏の家来で沼田の城下町に土着した者が勤めることになっていた。しかもこの役だけは世襲制をとりその後土岐氏時代まで続くのである。

「検断」とは、名主の上に位して主として町人間における訴訟に関する仕事にあたる。いわば民間の司法官で犯罪者の下調べから、町内の最高顧問という役目まで帯びていた。人数は二~三人で時代によって多少異なるが、これは真田氏時代からの職制であった。

代官政治二十二年間における沼田領及び社会の出来事を取りまとめて表示してみよう。

新領主本多氏沼田へ移封

二十二年間にわたる代官政治によって、さしも混乱と疲弊におびえた沼田領も復興し、ようやく平常の生活に立ち戻ることができた。

幕府はその実状にかんがみ、ここに新たな領主として、元禄十六年(一七〇三)一月十一日若年寄の

本多伯耆守正永

を沼田に封じた。去る天和元年真田伊賀守信直失脚以来、二十三年振りで新領主を得た沼田藩領民はおそらく大きな歓びをもって迎えたことだろう。如何に有能な代官であっても代官は代官だけのことである。やはり正式に領主をいただくとなると何やら領民は大きな安堵を抱き、新しい希望に燃えて生活にいそしんであろうことは想像できる。

しかも新領主は徳川氏旗下の名門本多氏の一統であり、現在幕府若年寄という要職に就く人物である。

本多氏は、遠くは藤原氏より発し、家康の四天王の一人として勇名をご馳せた本多平八郎忠勝もその一門である。

家康の知恵袋と称され、徳川氏草創の際常に帷幕下にあって天下統一の大事業を扶げたかの有名な

本多佐渡守正信

の弟、正重の流れを汲む正永は、よほど俊英な人物であったらしく異例とも思える昇進振りがそれを証明する。

しかしこの正永も沼田へ赴任してみてどんなに驚いたことだったろう。先年真田氏没落以来、この沼田には城郭が無いのである。領主の住む城もなければ、家臣の住宅もない。堀もなければ囲もない。あるのは荒涼とした城地の野原だけという状態であった。

これでは領主としての権威も保てないので急遽幕府より金二千両を拝借し、直ちに城郭の復旧作業にとりかかる。当時は天守閣の構築は許されなかったが、それでも一応城としての体裁は整えなければならない。

その年五月より復旧作業は開始された。この大工事によって相当地元は経済的に潤ったことと思うが、それにもまして再び沼田が城下町として復興したのは大きな喜びであり誇りでもあったろう。

先ず手始めとして埋め立てた堀の浚渫工事が実施された。夜を日につぐ突貫工事でともかく城の外観は完成するのであった。

この正永によって掘起された堀がその後沼田城の堀として近代にまで残存したが、現在にいたっては、殆んどが埋め立てられ、校地や道路に変貌し、今や当時の俤を偲ぶすべはなくなった。わずかに東倉内町おつきや稲荷周辺と、小学校南側付近にそれとおぼしき残骸がみられるだけである。

しかし正永のおかげで、真田時代と同じというわけにも行かぬが、ここに沼田城は復活したのであるから沼田にとっては忘れられぬ領主の一人である。

正永はその後老中にまで昇進するが、惜しくも正徳元年(一七一一)五月十九日、六十七才で卒した。在世中は幕府の要職にあった関係で、あまり沼田に留まることはできなかったが領主への敬恭は非常に大きかったと思える。わずか八年間の治世であったが………。

正永の遺骸は江戸市ケ谷の別荘に葬られたが、生前沼田においては原新町の平等寺をその菩提寺としていた関係でやがて位牌が送られた。

表面に

信行院殿従四位下侍従兼
伯耆守藤原朝臣正永釈光山

背面に

於い上野下総河内三国之内来地四万石
上野州利根郡沼田城主
俗名 本多伯耆守正永
正徳辛卯五月十九日卒

とある。

正永には実子がなかったので、榊原膳久政の次男三弥を元祿六年(一六九三)に養子として迎えている。

正永歿後、後を継ぎ二代沼田城主となる。即ち本多遠江守正武がその人である。

この領主については殆んど記録がなく、「沼田町史」では

「父正永(養父)ほどの器量はなかったらしく、幕府に於ても、雁間伺候以上には上らなかったようである。また沼田城主としても、特記すべきほどの治績は残されていない。」

と述べている。

領主としては正徳元年より亭保六年五十七才で没するまでの十年間という期間であった。

江戸時代、諸国大名が登城した際の空室に格差があった。部屋の襖の絵によって柳の間とか雁の間とかそれぞれ区別され、

・柳の間…四位以下の諸侯
・雁の間…柳の間以下

など身分によって決められる。

不思議なことに正武にも実子がなかった。従って初代正永の弟正方の長男正矩が後継者となったのである。

正矩は正徳三年(一七一三)正武の養嗣子となり、亭保六年養父正武没するや三代沼田城主となる。しかしわずか九年にして駿河国田中城に転封されて、再び沼田は代官時代を迎える。

従って沼田における本多時代は

元祿十六年(一七〇三)から
亭保十五年(一七三〇)までの
三代二十七年六ケ月で終る。

あまりにも沼田においては真田氏の印象が強かったためか、本多氏領有についての事蹟はなんとなくかすんでしまっている。

現在沼田城下町といえばすぐ真田氏を連想する。

真田氏 五代九十一年
本多氏 三代二十七年
黒田氏 二代十年
土岐氏 十二代百二十九年
(他に代官時代二期二十四年)

と続く中にあって、どうして真田氏をもって沼田城主の代表という観念を抱かしめるのであろう。

本多氏領治時代についての資料は誠に乏しく、わずかに沼田における菩提寺平等寺に数通の古文書が現存する程度である。