真田昌幸が武田氏の勢力の代表として利根に攻入り、上杉、北条の争いの虚をついて沼田城に乗りこんだのは天正八年六月(一五八〇)のことである。

偉大北条氏はこれを奪回せんと数度にわたって戦いを挑んだが、天下屈指の要害「沼田城」を擁する真田勢は遂に屈しない。これに手を焼いた北条氏は徳川家康と同盟を結んで後顧の憂いを除き、再度沼田を目指して大軍を派遣したが相変わらず真田方は防戦よくつとめて一歩も譲らない。

ところが一方において天下平定を志す豊臣秀吉は、関東に大勢力を張る北条氏が何としても障害なる。折あらばとねらっているうち、沼田におけるきた女子の不信行為をきっかけとして遂に天正十八年七月に北条氏を滅ぼすのであった。

真田昌幸は当時上田にありチャンス到来とばかり秀吉の軍に組みし、積年の仇である北条氏討伐に大いに活躍した。そして北条氏滅亡と共に改めて秀吉より昌幸は沼田城を与えられた。

昌幸にして見れば時の最高権威者豊臣秀吉より正式に城主としての地位を認められたのだからそのよろこびはいかばかりであったか。

しかしそのころはすでに昌幸は上田に城を持っていたので今回与えられた沼田城へは長子信幸を城主として住わせた。以来信吉、熊之助、信政、信直と続き、真田氏は五代九十一年の間この地を統治する。

天正十八年(一五九一)より

天和元年(一六八一)まで

初代真田伊豆守信幸

封建時代における城主は、その領土内の最高主権者であり支配者であるから、城主の人格は直ちに領内の政治に反映する。

年齢二十五才の若き城主信幸ははたして積年の戦乱に荒れ果てた利根、沼田の実状に対していかなる統治を行ったか、これは興味ある問題であるし、現在の沼田につながる真田行政のスタートでもあるから仔細に検討して見る必要があろう。

前の領主沼田氏時代より上杉、北条の沼田城争奪の戦乱まで数えれば三十年もの長きにわたってこの地は戦乱の巷となっている。特に北条勢の乱暴狼籍を語る者として、「沼田記」に次の様なことが記されている。

北条方の軍勢が沼田の城を取り巻き、付近一帯に攻め入った雑兵達は神社、仏閣、民家等手あたり次第に焼き、財宝等皆取りあげ、文句不平をいう者があれば男女の別なく直ちに切り捨てる。

住民達おそれおののき、わずかばかりの家財を持って山の中に逃げ入って命だけは助からんものとふるえていた。

特に川場吉祥寺の本尊をかつぎ出し「この目は金ではないか」とばかり左の御目をくり出したところ不思議やその目より鮮血が流れ出たのでさすがの乱暴者の兵達もこれには驚き礼拝して逃げ去った。

正にこの世の地獄とも思える様子が目に浮かぶようである。こんな状態が三十年も続いたとなれば領民は生きた心地もなく、その疲弊は言語に絶するものがあったろう。

こんな様子に接した若き新城主信幸は果して何を感じ、何を思ったろう。

宿願の沼田を手に入れたよろこびより、この地をもって終生の地とするおのれの立場から先ずもって着手すべき施設の第一歩は、

民生の安定

にありと考えたのは当然といえばそれまでであるが領民にとって見ればこの上もない処置であったろう。

諸税の減免、市場の設立、田畑の開拓、水利の開発、町割の整備、城郭の改築、寺院の建立等々近代沼田につながる諸設備、施設は信幸の献身的努力によるものが多い。地元における戦争がなくなれば領民は安心して業につくことができるし、領主に対する信頼感が厚ければ諸般の復興も早いというもの、利根、沼田地方は忽ち生色をとり戻して平和を喜ぶのであった。

信幸の人となりは真田氏においても特に思慮深く武勇に富み、道義に厚い典型的の武人であったという。これにすっかりほれこんで自分の養女小松姫を娶らせたのが誰あらぬ徳川家康であった。家康は信幸が沼田城主になる一年前即ち天正十七年にこの婚儀を結ばせており、信幸が沼田城主になった翌十八年にはおのれも江戸城主となっている。

しかしこの婚儀は多分に攻略的色彩が濃く感じられる。というのは過ぐる年、沼田城をめぐって真田と北条が盛んに争っている時、家康は北条氏と同盟を結んで、間接的には真田氏の足をひっぱていたことがある。

ところが秀吉が北条を亡ぼし、しかも沼田城を正式に真田に与えたのであるから、家康にして見ると甚だ真田に対して工合がが悪い結果となってしまった。そこで家康にして見ると昌幸と和合すべくこんな芝居を打ったのかも知れない。何しろ世はまだ戦国の気風がみなぎっている頃であるからこんな権謀術策は朝飯前である。

小松姫は家康の養女とはいえ実は本多忠勝の娘である。いずれにしてもこの女性と縁組することは信幸は徳川氏と親戚関係を結んだことになる。

やがて豊臣から沼田城をいただいた恩義を感じる父昌幸と、徳川と親戚となった子信幸が共に苦しい立場に追いこまれる萌芽はこの時より始まった。家康の親子離反策と見るべきか。

信幸が沼田城主となり政治に懸命になって努力するころより天下は全く秀吉によって平定され、外には国威発場とばかり征韓の兵を派遣するし、内には聚楽第に天皇の行幸を仰ぐなど、秀吉の勢いは華とばかり咲き誇ったが、幸村が沼田城主となって八年後、さしもの英雄秀吉も病には勝てず慶長三年よわい六十三才で薨じた。

さてこうなると人の心は正直なもの、いつしか家康の方へ傾いてくる。昔も今も同じこと保身のためには打算と妥協がつきもの、次第に実力者家康の方へ風がなびいて、幼児秀頼の方は何となく索漠として往年の俤はなくなってくる。

こんな不安定の世情は遂に二年後の慶長五年(一六〇〇)に爆発した。

浦生氏の後をついで会津百二十万石の城主となった上杉景勝は、居城の西南に新城を構築しはじめた。ところがこの工事に神経をとがらせたのが今や秀吉亡き後天下をねらう家康であった。再三築城の趣旨を間合わせたが更に要領を得ないので遂に業をにやした家康は景勝征討を思い立ち兵を進めた。たまたま宇都宮付近にさしかかった時、関西において石田三成兵を挙げるの飛報に接したのである。

驚いた家康は今は景勝と事を構える時にあらずと判断し、わが子秀康を備えとして宇都宮に残し、自分は急遽江戸へ引返した。

この上杉征討には上田の真田昌幸、幸村の親子、又沼田の信幸も共に参戦し兵を下野佐野へ進めた。そこへ石田三成の密使が来て、西軍参加を懇請したのである。その夜晩くまで父子三名凝議したものの今回の戦いは真田にとっては誠に容易ならぬ立場に追い込まれて、場合によると父子、兄弟敵味方となる危険多分にありと判断し、なおも相談を重ねた結果「今は利害得失を論ずべきではなく、恩義を重んじることを第一に考うべき」とまとまり、昌幸、幸村は石田方、信幸は徳川方へ参加することになり直ちに行動に移した。

情報は各方面に乱れ飛び、騒然とする中にあって各大名はそれぞれおのれの保身に心を砕く、正に天下分目の対戦となる予感が誰しもの気持ちにひしひしと襲うのであった。

昌幸、幸村はおのれが居城上田に帰るべく道を上州にとり、途中息子の城沼田へ立寄った。

久し振りに嫁女と孫の顔を………などときわめて世間的なじいさまになり切った昌幸は安易な自分の気持に冷水を浴びせかけられるような事態が待っているとも知らずに……。

この時すでに留守を護る信幸の奥方小松姫の耳には、父子物わかれの情報は入っていた。奥方は多くの侍女を従え、薙刀小脇にしうと昌幸を城外に迎え「たとえしうと、又弟であっても今は敵味方の間柄、留守をあずかる私として絶対にお通しすることはできません」と厳然と拒絶した。

これに対して昌幸もさる者「さすがは本田平八郎の娘、武士たる者の妻はかくあるべき」と、あえて抗らず城外に一泊し、翌日は早々に上田へ引上げたという話がある。

一方信幸は直ちに江戸へ引きかえし家康の下知によって、秀忠の軍に加わった。秀忠は信濃、岐阜を通って関西へ、家康は東海道を通って西へと二手に分かれて石田征討に向うのであった。

真田、徳川の関係については、再び述べると北条氏は織田信長が本能寺の変に倒れるやそのどさくさにまぎれて厩橋(現在の前橋)を先ず手中に収め、更に進んで信州を攻略して甲斐に入り徳川家康と対陣した。

北条氏のねらいは実はこんな方面ではなく、遠く越後との国境の要衝沼田城にあったのである。そこで直に家康と和議を結び、直ちに兵をかえして沼田をねらった。和議の条件として

1、今回征服した信州、甲斐は家康に与える。

2、上州沼田の城は北条氏の希望にまかせる。

3、甲州、信州は家康、上州は北条とそれぞれの勢力範囲として認め合う。

といった内容である。時に天正十年十月二十日(一五八二)、今や東海の両雄は後顧の憂いなく、協定された地域に向って進撃を開始するのであった。

家康は北条氏との密約により、上田は砥石城に居る真田昌幸に圧力をかけた。「お前の持っている沼田城は北条氏に譲ったらどうか」と、いかにも勧告の形をとってはいるが、実は申し入れを拒絶すれば、沼田は北条、上田はこの家康が一気に押しつぶしてしまうぞという脅迫的な含みが充分感じられる。

こんな申し入れを素直に受け入れる昌幸ではない。彼は断乎としてはねつけたのである。それならばと家康は直ちに鳥居元忠、大久保忠世ら八千五百の大軍を信州に向わせた。

恐らく家康にして見ると思う壺の作戦だったろう。沼田へは北条が兵をさし向けているからこれで小うるさい真田を徹底的にたゝけるのだとほくそ笑んでいた。

やがて徳川方の大軍は上田城に攻めかかった。この時の戦いに城方昌幸は全く千早城における楠木正成まがいの戦法をとり、奇手を城中に導き入れ、これに大木、鉄砲、矢を浴びせかけたので総くずれとなって敗走するのを昌幸らはすかさず追撃に移り大打撃を与えて引き際見事に城中へ戾った。

この戦果たるや徳川方千三百人の死者に対し、真田方は僅かに四十七人だったという。

これによって一躍智将真田昌幸の名は天下に広まったが、それに引きかえ、ばつの悪い思いをしたのは家康だった。

一方沼田を攻めた北条氏は守将矢沢頼綱の奮戦に数回にわたり手痛い打撃を受け、遂に沼田城攻略はできなかった。

やがて秀吉の仲裁によって真田、徳川は和解し、家康の養女小松姫が長子信幸に嫁ぐことにより表面上はめでたく解決したとはいえこれとても秀吉という大石があればこそ押しもきいていたろうが、両者の本心は果してどうであったか。それは秀吉亡きあとの歴史的過程において表面化してくる。

こんないきさつを秘めて今や天下分目の大合戦である関ヶ原の戦の前奏曲がはじまるのである。

すべては時の流れによって人間の織りなす壮絶なドラマがくりひろげられるが、こうした中にあって信幸は一体どう対処して行くか?