沼田藩 伊賀守信澄の城主としての行跡(4)
信澄の暴政は必ずしも信澄自身から出たものではなく、側近の奸臣等によって敢えてなされた事柄もあろう。しかし一国統治の最高権威である領主として、たとえ家臣の誰かが計ったことであってもその責任は負うべきが正道であろう。
「それは家老がしたことで、余のあずかり知らぬところである。」とうそぶいて責を免がれるわけには行かぬ。
たしかに伊賀守の周辺には塚本舎人(三百十三石)一派の麻田権兵衞、宮下七太夫等の奸臣がいたことも事実であったろうが、真田五百余人の家臣ことごとくが、不明の士であったとは考えられない。やはり領主たる信澄の認許がない限り、いかに奸知に長けても政令として効果は生じないと見るべきであろう。人間信澄としては必ずしも悪人ではないと思われるが、領主としての経綸は又別である。
さてこうした飢餓と困窮のどん底にあえぐ領民に対して更に重大な問題がのしかかってきた。それは「両国橋材木請負」という大事業である。
藩として両国橋かけかえの用材を請負い、この搬入によって何分かの利益をうみ出し、財政窮乏に資せんとする計画である。
江戸の両国橋が延宝八年(一六八〇)秋、暴風のため大破した。そこで幕府は船越左門為景、松平妥女忠勝の二名を両国橋構架の奉行に任命、工事に着手させることになった。
この時かけかえに必要な費用の一切(用材、工事費)を九千五百両で江戸の材木商大和久左エ門が請負った。
かねてから真田家と関係があった久左エ門は、この話を伊賀守に申し入れたところ、伊賀守は材木なら利根の山地でどのようにも調達できるとばかり、用材一切六百九十四本そのうち三十本は末口二尺七寸以上、長さは九間から十間のけやき材を三千両で請負った。
もちろん伊賀守自身、利根の山の木材状況など知るはずがない。そこで家臣にはかったところ、前記塚本舎人等の連中が「利根の山にはその位の材木は、麻がらのように生えています。」と進言したので伊賀守は大いに意を強うした。
中には硬骨の士もあって、弥津宮内、脇坂源五兵衛のごときは、色をなして「一国の領主が、町人より材木の下請をするごとき言語同断。」とばかり進言したが、両名供に勘気にふれ、隠居、蟄居を命じられるという始末、______ここあたりの処置に領主としての器量が疑われる。
その時、利根の山々に果して条件にかなう用材があったかどうか、これは大きな問題だ。当時、苛酷な税に喘ぐ農民達は、生きるための手段としてひそかに山木を伐り出して他国へ売っていたのである。
用材請負が延宝八年(一六八〇)である。その八年前、即ち寛文十二年(一六七二)四月に「ご領内山々では、樅、桧の木を伐りつくしてしまったから、今後は細木でも一切伐ってはならない。」という命令が出ているし、さらに二年前の延宝六年(一六七八)七月にも「何万枚という板が他領に売られ、百姓供は田畑を放任して山仕事にばかり精を出している。こんなことでは耕地が荒れるばかりであるから注意せよ。」とのお触れがあったことから察して、さすがの木材王国の利根でも、そうやすやすと用材を供出することは不可能であった。どうしても伐り出せということになると人跡未踏の奥地まで入らなければならぬ。そうなると巨木のことゆえ運搬が極めて困難になる。
こんな実状を無視して、唯三千両の現金が目当てに安々と引受けてしまったところから悲劇の序曲が始まる。しかも用材の江戸搬出は翌年の延宝九年八月までという期限つき、たとえいかなる困難があろうとも既に前金三千両を受取ってしまった沼田藩では藩の名誉にかけても用材は江戸まで搬出しなければならない。
藩では山の実態を調査して今更のように驚いたが、事ここにいたっては無理を承知で取組むことになった。先ずは人海戦術とばかり領内の百姓に命じ、十五才以上、六十才までの男は病弱でない限りすべてを動員して交代制をとって従事させた。驚いたことには、これら徴用された百姓は無給だったという。食事だけは辛うじて支給された。
延宝九年春三月よりいよいよ、東入りの奥と、藤原の奥で伐り出しが本格的に始まった。この年三月より十一月末までに
一足延十六万八千六百七十三人
食料 五千二百俵
総費用 八千百二十七両二分という巨額に達した。
請負金額三千両に対して、その経費が八千両では見込みちがいも甚しい。しかもこの不足金は凶作にあえぐ領民から取りあげたというからすさまじい話である。
こう話を進めて見ると、江戸商人と藩の役人との黒い癒着がぷんぷんとにおって来るのを感じる。政商結託はいつの時でもあったのだ。たとえ収支は赤字でも、肝心の用材が整えられれば領民の困窮はともかくとして一応藩の面目は立つが、いざ伐採となると、さすがの山国利根でも役立つ用材は見つからない。幸い見つけたとしてもあまりに奥のため搬出に死にもの狂い、打ちつづく飢饉と重税のため疲労甚しく、仲仲能率があがらない。
その間、七月に大洪水があり、折角伐り出した材が流出したり、用材を集めた材木小屋三十余軒の中、二十三軒が山火事で焼失したりというハプニングのため、計画は大幅にずれてしまった。
一説には、沼田藩を困窮させるため、幕府の隠密が故意に放火した等の話もある。とにかく約束の八月末日までの納入は見込みがなくなった。
幕府にしても期限が近づくのに一向はかどらないのに業を煮やし、真田信澄を召し出して詰問したところ信澄は「打ち続く飢饉のため、領民の飢餓困憊甚しく、材木の伐り出しも意の如くなりません。どうか納入期間を来年の三月末、あで延期願いたい。
それに用材の中、樫の木十七本が何としても入手できないのでこれを栗の木にかえていただく様伏してお願い申し上げます。」と申し出した。これをきいて老中は呆れかえり「延期はまかりならぬ。先に渡した三千両を領民の窮乏にあてたらかかることもなかろうに……。」と申し渡すのであった。
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