沼田藩真田氏〜破局の渕に近づく
真田五代伊賀守信澄は、江戸両国橋かけ替え用の材木を請負ったものの、色々の事情で約束の納入期日にどうしても間に合わぬ現状に、納入期日を翌年の三月まで延期することを幕府まで申し入れたが、すでに沼田藩の実情を知る幕府は容易に許可しなかった。
沼田藩の係役人は八方駈け回りやっと十月まで延期というところまでこぎつけたので、以来藩の面目にかけてとばかり総力を挙げて用材搬出につとめたが、なんとしても契約の半分にも満たぬ本数しか用達できぬまま約束の日限は切れた。
こらえかねた幕府は、遂に天和元年(一六八一)十月二十九日、老中大久保加賀守から使者をもって伊賀守に対して「御用木搬出無用」という厳しい通告がなされた。
驚いた伊賀守は時を移さずその晩に長子信就を大久保邸につかわしたが全然問題にされない。
翌三十日には伊賀守自身加賀守に会って取りなしを頼んだが、加賀守は「事ここにいたっては、一件落着までは謹慎されよ。」と冷たく幕府の内意を伝えるだけであった。
万事休す、伊賀守は十一月一日、江戸藩邸の門を閉ざし謹慎すると同時に、急ぎ事の次第を沼田へ知らせた。
急報により重大な局面を知った沼田藩では同三日門を閉じ、一同謹慎することになった。
そこへ江戸町奉行から急使がきて「取り急ぎ御用木関係の役人は出頭せよ」と伝えた。
国元では直ちに当面の責任者である塚田舎人外四名が出府、江戸藩邸にいた麻田権兵衛と合流する。
江戸到着の届出と供に、時を移さずこれら責任者へ評定所出頭の命が下される。
評定所の審問は十一月十二日、江戸町奉行、寺社奉行によって今回の御用木搬入の始末につき厳重に行われた。
当局ではすでに事件の内容については細大もらさず知っているのである。というのはすでにこの年
・正月に国元政所村(現月夜野町)の松井市兵衛が目付役桜井庄之助の越訴
・続いて行われた月夜野杉木茂左衛門の直訴
・六月行われた幕府巡見役の報告
・隠密による極秘調査
によって沼田藩の内情はすべて手中にあった。であるから今回の評定所における取調べは事実の確認が中心となった。
もはや 沼田藩紛糾 伊賀守の失政は確定の事実となったわけである。
残るは最高責任者たる伊賀守に対する糺問と裁断あるのみ、越えて二十二日、伊賀守親子は評定所に呼び出され
老中 大久保加賀守 土井大炊頭 安藤対馬守列座のもとで、左記十ヶ条について糺問が行われた。
糺問十ヶ条
一、 注文日限にいたって延着の事
一、 百姓夫役心得ざる事
一、 飢に及ぶ百姓救わざる事
一、 奢り増長し美酒美女を愛する事
一、 旧臣の者共暇を出し新参の者共出頭役儀申付る事
一、 御朱印下馬を軽んじ寺院殺生禁断の場を狩り遊輿の事
一、 道中にて幼き者わきまえなき慮外を咎め斬り捨てる等の事
一、 先代の祖開発奉公の地形に新検を入れ広大に貢を取る事
一、 将軍御先祖より由緒ある忠臣譜代の家来おびただしく暇を出し遣わせし事
一、 百姓町人年来の訴訟取上げ糺さざる事
大体以上の件についての糺問が行われたが、すでに確定の事実を握っている当局に対し伊賀守は一言の釈明ができなかったという。
そこで次の様な峻烈な裁断が言い渡された。
「伊賀守真田信直(信澄)平常行跡よろしからずそのため家中の諸士並びに領内百姓が困窮に及ぶ由将軍もご承知である。これだけならばまだしもであるが、今回両国橋用木注文についてはことごとに不都合である。誠に許し難い重科というべく、よって領地は召し上げ、伊賀守は出羽山形へ配流し奥平小次郎にお預け、長子信就は浅野内匠頭へお預け、以上申し渡す。」
すべては終った。ここにいたり沼田真田家は重大なる破局に陥った。
思えば真田伊豆守信幸が初代沼田城主に封じられたのは天正十八年(一五九〇)今、伊賀守信直が領地を召し上げられたのが天和元年(一六八一)その間、五代九十一年間、かくして名家沼田真田氏の巨灯はその輝きを失った。
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