いかに弱肉強食の戦国の世とはいえ、数百年にわたって利根の地を領有していた沼田氏の滅亡にあたっては誠に非業といおうか、悲運といおうか、人間性のみにくい場面の露呈に思わずも目を背けたくなるのを感じる。

前号にもふれたが平八郎景義は先代顕泰の愛妾「ゆのみ」の腹に生れた。したがって彼が痛憤の最後を遂げるにいたった陰の演出者金子美濃守は正真正銘の伯父にあたる人である。

妾腹に生れた平八郎はその母「ゆのみ」の偏愛に育てられたが、成長に伴い人となり衆に優れ、まことに智勇共にあっぱれ偉丈夫であったという。しかしながら周囲の状況によりやむなく若い頃から数奇な運命にもてあそばれ、遂に四十二才の働き盛りで非業の死をとげた。

その首は新しく鞍打城をのっとった真田昌幸の実験に供したが、現在沼田公園北西部の木立の中にある「平八石」が首をのせた台石であったという。遺骸は昌幸の情により市内町田町にある旧小沢城に葬って一寺を建立し法喜庵と称したが後に法名を改めた際に法城院と呼ぶようになった。この寺の後方に祠を祭り沼田大明神と称している。

一方平八郎謀殺の張本人である伯父金子美濃守は因果応報、事業自得とでもいうべきかやがては重職を追われ最後は吾妻の僻地で寂しく病死してしまったが、この冷血美濃守もさすがにその罪業におびえていたと見え、平八郎を殺した翌年滅罪のために山形は湯殿山に参詣したところ、山にさしかかると手足がすくみ前後不覚に陥るので山の行者がこれをあやしみ。

「何か罪業があるならば懺悔しなさい」といったところ、今はおのが罪におそれおののく彼は仕方なく「非道にも主君平八郎君を討った」と白状するやいなや、数十メートルの大蛇が現われ、金子に向って左の脇腹をさらし、ありありと残る傷あとを見せたという。この傷こそ過ぐる年の三月十五日、三尺の太刀をもって平八郎の脇腹を三度にわたって突きさしたそのあとであった。

彼はなおも勇を起して七度も山に登ろうとしたがなんとしても登れなかったので遂に思いとどまり、平八郎の冥福を祈るためにその坂に鉄のくさりをかけたという。世にこのくさりを「金子ぐさり」と伝えられているそうだが、果して現在あるものかどうか。たとえそんな話だけでも残っているとするならば興味深い。
 
 

 
 
一方新しく沼田鞍打城を手に入れた真田昌幸は城代として藤田能登守と共に海野能登守輝幸及び旧沼田氏家臣金子美濃守を起用した。

海野の家は昔は真田氏の一族であったが、このころは家臣として仕えていた。輝幸の兄長門守幸光は吾妻の岩櫃城の城代をつとめ、兄弟共に昌幸の信任篤く、しかも武勇智謀にすぐれ主君の恩義に報いんとよく両城を固めていたのであった。

当時沼田の城は真田氏の手中にあったとはいうものの、かねてからこれを快よく思っていない南関東の雄北条氏はなんとかして奪回しようと虎視恥々とねらっていた。このような情況にあって海野兄弟は誠心誠意昌幸の意を体して忠節をつくしている折も折り、一つの事件が起った。

昌幸の配下数名が連判状をもって「海野兄弟はどうも北条方に通じているらしい」と進言したことからはじまるのであるが、昌幸としても俄かにこの言を信じることができず、ひそかに伯父矢沢頼綱に相談したところ頼綱はこともあろうに「あるいはそうかも………」

という返事だったので、はかられたとも知らず昌幸は直ちに岩櫃城代である兄幸光を討たんとして襲いかかった。幸光時に七十五才、且失明していたので防ぐ術もなく痛憤のうちにも討死した。

一方時を移さず沼田城代をしている弟海野輝幸に対しては昌幸の弟隠岐守信尹をさし向けたのである。これをさとった輝幸は身に覚えないえん罪に憤激したものの今戦っては利あらずこの際は迦葉山へ立てこもり逆心の無いことを明らかにしようと嫡子中務大輔幸貞及び手兵五十余人引きつれ静かに鞍打城を出た。「さては気どったか」とばかり、輝幸と共に城代をしていた藤田能登守信吉は大将信尹に従い二千にあまる軍勢を引きつれて後を追いかけた。

ここにいたっては輝幸も最後の腹を固めた「今はなにおか逃がれよう。いさぎよく武士の面目を立てるのみ、それにして自分がこの様な状勢ならば遠く吾妻に居る兄幸光殿もおそらく同じうき目であろうが何としても気にかかることぞ」と腹心の部下に事の次第を伝えて岩櫃城へ走らせ、その後はわが子幸貞と共に家重代の名刀茶臼割三尺三寸の大刀を振って群がる寄手に切り込んだが衆寡敵せず寄手の勇士木内八右衛門尉の死屍に腰打ちかけ謡曲「羅生門」の一節を共に高らかに謡いながら父子刺しちがえて壮烈な最後をとげるのであった。

場所は戸神山の東、岡谷と旧トンネルの中間あたりのところ、時に天正九年十一月二十一日(一五八一)父輝幸七十二才、幸貞は三十八才であった。一代の智将と称せられていた昌幸にしてこの愚挙あり、あたら誠忠の士二名を失ってしまった。これと知って嘆いた迦葉山の住職は多くの僧を従え厚く霊を弔い墳墓を営んで後世に伝えたのが今に残る「海野塚」である。

迦葉山を詣でる折があったら、岡谷を過ぎて左側、枝振りの良い松の木があるところがこの悲話を秘める塚だから、ちょっと目を注いで見よう。

又伝えられる話に輝幸父子が鞍打城を脱出した際に奥方も行を共にしたが、俄かに変る夫の身の上と、落ち行く末をはかなんで高橋場地先にさしかかった時いたましくも自害して果てたという。事態急を要する折柄のこととて輝幸父子は心ならずも遺骸をその地に葬り迦葉山さして逃げのびたが、里人これをあわれんで塚を作り祠った。以来数百年奥方の墓は誰一人顧みるものとてなく徒らに松吹く風が悲運をかなでているのみである。しかしこのことは何ら証すべき資料もなく唯口伝えに語り継がれているのみだが、戦国の世の苛酷な物語りとして胸を打つ。