沼田城主としての河内守信吉
沼田初代城主の嫡子として
文禄四年(一五九五)に生まれた信吉は、幼名仙千代、後に蔵人といった。
元和二年(一六一六)に二十一才にして城主となる。
寛永元年(一六二四)二十九才の時に河内守に任じ、従五位下に除せられる。
寛永四年(一六二七)三十二才の時、厩橋(現在の前橋)の城主酒井雅楽頭忠世の女をめとる。
この時から真田氏と酒井氏とは姻戚関係となり、それ以後いろいろな意味において酒井氏と沼田との問題がからんでくるのでこの際銘記して置きたい。
信吉の母大連院は人も知る徳川家康の養女(実は本多氏の娘)、今又信吉は徳川四天王の一人と称せられる酒井氏から妻を迎え、いよいよもって徳川氏との関係は密接なものとなってくる。外様大名である真田氏が幕府のお膝元である関東において安泰を保つにはこうした閨閥関係を濃くすることが最も有効な手段であったのだろう。
当時父信幸は上田から更に移封され遠く松代の初代城主として新しい城下町の建設に着手してから五年目、よわい六十二才であったし、母大連院は七年前に亡くなっている。
思うに信吉が沼田城主時代は領地内の戦乱によるも恢復し、きわめて平和安穏の時代であったろう。信吉自身も守成の人で父信幸の遺業を忠実に護っていたのではないか。
信吉は
寛永七年(一六三〇)女子生る 国姫
寛永九年(一六三二)熊之助生るの二子あり、無事安泰のうちに城主たること十八年、四十才を迎えた。
この年、即ち寛永十一年十一月(一六三四)信吉は江戸において卒去する。遺骸は沼田へ持ち帰り迦葉山にて火葬に付し、雙林寺(子持村)の僧が導師となって天桂寺へ葬った。
法名
天桂院殿前河州太守月岫浄珊大居士
ところがここに一つ問題がある。
「沼田町史」において
・信吉の項の記事によると寛永十一年(一六三四)信吉の遺骸を天桂寺に葬る
・伊賀守信直の項の記事によると寛文六年(一六六六)信直今の天桂寺の所に在った舒林寺を現在の場所に移し、その跡に当時新巻村今宿に在った瑠璃光寺を移して天桂寺と改む。
・天桂寺の項の記事によると明暦三年(一六五七)河内守信吉、深く禅門に帰依し天桂寺を建立し菩提寺とする。
以上の三項を比較検討するのに、天桂寺の沿革についてどれを採りあげてよいのか迷ってしまう。特に「天桂寺の項」の記事は信吉が亡くなってから二十三年も経ているのでこれは考えられない。
すると「伊賀守の項」の記事によるとするなら、信吉死亡の寛永十一年の頃はまだ天桂寺という寺はなくて舒林寺(恕林寺)が埋葬寺となる。
恕林寺が現在の天桂寺のところに建立されたのは文祿二年(一五九三)信幸時代で、信幸はその後慶長十七年(一六一二)に境内四町歩を寄進し菩提所とするという沿革をもつ。
以上のことから信吉が埋葬された当時はまだ天桂寺はなくて恕林寺だったろうと推定する。
現在は信吉の墓として宝篋印塔唯一つ残すのみであるが、昔はその後に三尺ばかり土を盛立てた上に三間四面の御霊屋が建てられ、その中に
・大鋒院 高さ三尺 伊豆守信幸
・天桂寺 高さ四尺 河内守信吉
・一陽院 高さ三尺一寸 信幸の子熊之助
の三本の位牌があり、信吉の墓の前には高さ七尺の灯籠があったというが明治初年に焼失破壊したという。
信吉の墓の近くに見られる円い礎石二個は往年の石灯籠に使ったものか。
・信吉の業績
特筆すべきは「川場用水」の開さく工事であろう。
沼田台地の水利は遠く今より四百四十八年前、時の城主沼田万鬼斎顕泰によって享祿三年白沢から四里(十二㎞)の水路を開さくして沼田へ導水したことについては既に述べた。
その後次第に人口増加、耕地開拓等によって水不足を来たし必要量を充たすことができなくなった。
真田初代城主伊豆守信幸は不足を補うため薄根川の水を川場村地点から導入する計画を樹てた。
古文書によると「元和年中工事ヲ始メタガ障害多ク仲々進捗シナカッタ」旨が記されているが、信幸は元和二年には沼田を去っているのであまり成果はあげられなかったと思われる。
結局父の志を継いで二代信吉が実施したことになるが、これが仲々の難工事で
元和六年(一六二〇)着手
寛永五年(一六二八)完成
というから正に八ヶ年を費やしたことになる。
川場村湯原の谷地地先から導入し、中野、萩室、屋原を経て白沢村に入り同村の下古語父、蓬田、上古語父を経て横塚において白沢用水と合流し沼田の町に達するという延々四里に及ぶ大工事である。しかも水門口の谷地の標高五八五メートル、沼田は四一七メートルとその標高差は一六八メートルであるから落差は充分として途中の地形を考えるときに殆ど不可能に近い実状である。学問的の測量術も不備な当時にあってこの起伏の多い場所をどのようにして引水したか。
元来谷地と沼田の距離は三里である。それを時には遠まわし、場合によっては樋を使用したり、土地の高低を測るのに夜間提灯を使って測量したり筆舌を絶する苦心の結果、四里の水路を設けることによって沼田まで導いたのであった。
しかしいかにも無理な施工であったため、その後の管理、維持に難点が多く元祿年間に改修を加えてようやく完成した。それにしても信吉の英断はよくこの難事業を克服した。その寄って来たる沼田台地住民への恩恵は測り知ることができないもがあった。
先人苦心の経営である城掘川が近年著しく汚染、荒廃下のを憂え、最近この歴史的遺跡の浄化運動が輿ったのは大いによろこぶべきことである。環境美化の点からも、文化財尊重の上からも永続的な関心が保持されるよう心から願うものである。
次にかの有名なる城鐘について述べてみよう。
かつての沼田町役場の裏側に鐘つき堂があり、朝な夕な町の人々に時を告げていたあの鐘は二代信吉の念願によって鋳造されたものである。この鐘についての詳細は本誌「創刊号」に紹介したが、一部を再び述べると
信吉の命によって鋳造された巨鐘は寛永十一年七月(一六三四)城内三の丸に建てられた鐘桜にとりつけられ
城主の声威がますます盛んにそして永の願をこめて鳴らされた。
信吉の悲願も空しくその後四十八年経った天和二年に沼田城は破却となり、この鐘も危うく土中に埋められるところを平等寺住職覚遒の請願によって救われ、その寺鐘として用いられていたのを明治にいたり町で時鐘に使うようになった。その鐘つき堂も庁舎拡張工事のため取払われて現在この鐘は市民ホールに安置されている。
以上のいきさつから沼田の人の印象に残る鐘つき堂そのものは明治中期に建てられたのでこれは城とは関係はない。唯鐘は三百四十年余の歴史を秘める由緒あるものである。
・信吉に関する挿話
信吉が沼田城主時代、大小の刀の柄を木綿の打紐で巻いてあるのを見たある人がそのあまり粗末なのを冷笑したところ信吉曰く「うわべに錦を着ていても、心が鈍くてはものの用には立たぬ。まあこれを見てくれ」と両刀を差し出した。ところが驚いたことには大小共に中味は相州政宗作び名刀であったという。
以来世の人はその木綿紐を真田紐とのぶようになったという。
信吉は領主になってから十六年目の寛永九年七月(一六三一)幕府からとんでもないものを預ることになった。
それはかの有名な加藤清正の孫にあたる、加藤藤松正良とその母及び妹である。
正良は父忠広が徳川幕府の忌諱に觸れ出羽の国へ配流を命じられた余波によって母子共々上州沼田の信吉におあずけの身となった。
藤松正良は当時わずかに三才、西も東もわからぬままに遠く沼田の里にあずけられ、蟄居生活を続けること二十三年の長きにわたった。今や成人するに及び、身の薄命を嘆きつつ遂に承応三年(一六五四)七月十七日刃して果てるのであった。
母も翌月十五日に死亡し、両者の遺骸は坊新田町妙光寺に葬られるが、正良母子については稿を改めて紹介するとして、名家加藤氏没落を目のあたりに見た同じ外様大名である真田信吉は果たしてどのような感慨で事の成行に接してたことだろう。
沼田万華鏡より
コメントを残す