◯小松姫真田信幸に嫁す

「稲」(一説にはますともいわれる)今は成長して小松姫となった彼女の背後には徳川家康が厳然と光っている。

家康がこの養女小松姫を真田信幸に嫁せしめる真意は果たして何にあったろう。

夫の真田信之
このことに関しては資料もないのであくまで憶測にしかすぎないが本誌第四号にはいささかふれて見た。唯、断言できるのはあくまで政略結婚であるという一事である。

小松姫が沼田へ輿入れしたのは天正十七年九月十三日、芳紀正に十七才の時であった。迎える新郎真田信幸は二十四才の正に働き盛り、しかしながらまだこの時は沼田鞍打城は正式に真田氏の者としては認められず、北条氏と戦雲唯ならぬ状態であった。

この年の秋、秀吉の仲裁によって北条氏と和議が成立し、沼田城は北条氏の手に渡されるのであるから、婚儀ははたして沼田城において行われたものかその点はっきりしない。

秀吉の仲裁が行われたのは七月であり、婚儀が九月とあればどうも時間的に納得がゆかぬものである。

あえて想像するのに、それまで沼田城を占拠していた真田が秀吉の裁定によって城を明け渡す猶予期間が多少あったとすれば、その直前において婚儀が行われたとしか考えられぬ。こう考えれば、二ヶ月の時間と婚儀とが結びつくし、そうでないとすると一体どこで挙式したかがはっきりしなくなる。

「沼田町史」においてもこの点に関しては明確に記載されていない。

◯そのころの状勢

ここで信幸、小松姫の婚儀がとり行われた天正十七年前後の状勢についてちょっとふれて見よう。

・天正六年(一五七八)

小田原の北条氏政、その子氏直の支配下に沼田は置かれる。

・天正七年(一五七九)

六月十八日、武田の鋒として真田昌幸(信幸の父)北条氏の沼田城代を屈伏せしめて入城する。

以来沼田鞍打城は武田の勢力下に属す。

・天正九年(一五八一)

沼田氏(昔からの鞍打城主)の後裔、沼田平八郎景義辛苦十二年の末父祖の築いた鞍打城を奪回しようとしたが伯父金子美濃守の奸計によって憤死する。

この年十一月、海野兄弟はあらぬ風説に災いされ、戸神原で戦死する。

・天正十年(一五八二)

三月、真田昌幸の主君武田勝頼は織田信長と徳川家康の連合軍に敗れ滅ぼされる。

この点に関する限り、昌幸にとって家康は主君の仇となる。

武田氏滅亡の影響により沼田城は信長の手に帰し、城代滝川儀太夫に委す。昌幸そのため心ならずも信州へ引上げる。

勝頼戦死後、わずか八十二日目に織田信長は本能寺において明智光秀に殺される。

ここにおいて沼田城は再び真田氏の手に帰するが昌幸は伯父矢沢薩摩守頼綱(綱頼)を城代とする。

事態唯事ならずと見た小田原の北条氏は徳川家康と協議の結果、沼田領有を家康に認めさせ、直ちに沼田奪回の兵を差し向ける。

これは正しく徳川氏は真田氏の足を間接的に引っ張ることになる。

北条氏と黙約によって家康は昌幸に沼田城を北条氏へ返えすよう勧告している。ところが昌幸もさるもの家康の申し入れを決然として断わる。

怒った家康は昌幸の拠る上田城を攻めたが大敗し、かえって昌幸の武名を高くした。

一方北条氏による沼田城奪回の戦は執拗にまで繰り返されている。

六月 猫城の戦 樽城の戦

十月 長井、阿曾の戦

沼須川原の戦

・天正十一年(一五八三)

秀吉大阪に城を築く。

・天正十二年(一五八四)

四月、家康秀吉の兵を長久手に破る。

・天正十三年(一五八五)

七月 秀吉関白となる。

九月 北条氏直大兵を卒いて沼田城を攻めるも大敗を喫す。

・天正十四年(一五八六)

五月 秀吉、家康と和す。

四月 北条氏、雪辱を期して大兵を沼田に向けるも政略ならず。

十二月 秀吉太政大臣に任ぜられる。

・天正十五年(一五八七)

二月 又もや北条勢、沼田を攻めるも真田方の城代矢沢頼綱の勝れた戦略に敗退する。

・天正十六年(一五八八)

数度にわたる沼田政略に失敗した北条氏政、氏直の親子は伯父氏規を京都に遺して、自分達が秀吉に臣下の礼をとることを条件とし、沼田の土地を北条氏へ還すよう真田氏に命じてもらいたと訴える。

この一事でいかに北条氏が真田氏に手を焼いたか目に見えるようだ。

・天正十七年(一五八九)

七月、秀吉は真田昌幸に「沼田の地を北条氏へ渡すこと。その代償として利根川西岸を与えること」を申し渡し、ようやく多年に亘る真田、北条の碓執が解決する。

いかに、明将昌幸といえども秀吉の裁定には服せざるを得なかった。

九月、信幸、小松姫と婚儀

十月、北条氏の沼田城代猪俣能登守が不法にも協定を破って、真田氏の領城である名胡桃城を政略する。

北条氏にして見ると大部分おのれが勢力下にある北関東において、わずか名胡桃城を中心とする一帯が宿敵真田氏の手にあるのがたまらなく不愉快であったにちがいない。

その不満が協定を破る今回の挙に出たのある。

昌幸は直ちにこの事件を秀吉に通報するのであった。

・天正十八年(一五九〇)

北条氏の不信を怒った秀吉は四月、大兵を以て小田原を攻め、多年関東にあって勢威をはっていた北条氏を亡ぼす。この戦は秀吉にあってはかねてからの予定で、いわばその機をねらっていたと見るべきであろう。

昌幸は小田原征伐に参陣し大功を樹てここに改めて秀吉より沼田城領有を認められる。

信幸初代沼田城主となる。

同時に家康も関東の地を領有そ江戸に城を築く。

沼田万華鏡より