大岡裁き(2)〜沼田以外史
◯白子屋お駒
これも亭保年間のこと、江戸は新材木町に白子屋庄兵衛という材木問屋があった。
庄兵衛は、利根特産の材木丸太をはるばる運ぶ木流し人足、月夜野小川出身の市兵衛という男の勤勉実直佐をみこんで、おのが一人娘おつねの聟に迎え、名も庄三郎と改めさせた。
庄三郎、おつねの間に生れた女の子、それがお熊である。お熊が成人するころ庄三郎は病気勝ちとなりそのため家業も次第に振るわなく新代々の白子屋も大分左り前になってきた。
たまたま同業者長兵衛の世話で、又四郎という者を二百五十両の持参金付で聟養子として迎え、お熊と夫婦にした。
それから八年、亭保十一年(一七二六)には両人の間にもうけた女子も五才となった。並の話ならこの頃ともなれば夫婦仲も固まるだろうが、又四郎、お熊の間は決してそんな平穏無事ではなかった。
というのもそもそも二人の結びつきが持参金目当て、親の欲得づくの結婚だからである。それに加えて家付き娘のお熊はすこぶるつきの美人、一方入聟の又四郎は持参金だけがとりえの醜男だったから形は夫婦でもお熊の気持ちはなんとしても耐えられぬものがあった。
この間の様子を知り、お熊に忠義立てをしたのか、それとも女同志の思いやりか、お熊にハンサムな手代忠八なる男をとりもったのが白子屋に数年来奉公していたおひさという三十一才の下女だった。
密通とは知りながらもお熊は忠八に引かされる一方、益々又四郎をいとう気持は強まって行く。お熊は母親おつねにも相談した。おつねは又四郎をお熊とめあわせた事情もあり、悲運に泣くお熊の心中を思うとき、遂々わが子かわいさの情に負けて又四郎の追い出し策に乗り出す。
一方又四郎にして見ると母娘か共謀して出て行けがしの難題をいいかけてくる冷酷な仕打ちに我慢のならぬものがあった。
「そんなに気に入らぬなら、わしが持ってきた二百五十両を耳をそろえて出せ。それができぬなら金輪際この家からは立ち去らぬ。」と売り言葉に買い言葉、いつしかこんなやりとりが行われるのであった。
そうこうするうちにお熊は、同業者の次男坊と密通し、又四郎を離縁すれば二百両持参金付きで入夫しても良いという約束を取りかわせた。
母親のおつねは又欲に目がくらみなんとか又四郎に落度を作らせて切手金を踏み倒す方法はないかと考え、そこで奇計をたくらんだ。
田舎出のおきくという女中をそそのかし、又四郎の寝室に這い込ませる。又四郎がもしも手を出したらそれを理由に追い出す。勿論二百五十両の持参金など当然踏み倒して……。
しかしこの計画はみごと失敗した。意外にも堅物の又四郎は下女に戯れるようなことはしなかったからだ。
そこで第二の策を考えた。かねてから腹心の下女おひさと談合し、まことに空恐しい方法をとることにした。
先に失敗したおきくを呼び出し、言葉巧みに持ちかけ、又四郎と無理心中に見せかけ男を亡きものにしようというのである。
純情というのか、それとも女心のあさはかさというのかたばかれたとも知らずおきくはある夜再び言いふくめられた通り又四郎の寝室に忍びこんだ。
このあたり誠に解釈に苦しむが、おきくにはおきくなりの又四郎に対する考えがあったのかも知れない。
何も知らずに寝ている又四郎の喉を切ろうと用意の剃刀を取り出した。
ところが手際が悪いのか、心が乱れたのか手元が狂ってしまった。二三ヶ所切りつけられ血みどろになった又四郎はガバとはね起き大声でわめいたので大騒ぎとなってしまった。おののくおきくを取り押え、「何故かかる所行を………」と問い訊すと、おきくは前後の考えもなく、「お内儀さん(お熊)にたのまれました。」と白状する。
ここにいたり直ちに奉行所へ訴える。それから大岡越前守の裁きになり、翌十二年二月二十五日、断罪が申し渡される。
この日、かねて評判の白子屋がご処刑になるというので夜の明けぬうちから見物人が群集する。
四つ刻(午前十時)に先ずお熊、おきく、おひさが裏門から馬に乗せられて市中引き廻しに出、それから半刻(一時間)の後に番頭忠八が引き出された。
この時のお熊は、黄八丈の大格好縞、大型の帯をさげ、髪は島田に結い、薄化粧さえほど腰人目を驚かせる程美しかったという。
処刑後のお熊の亡骸は親類のものが貰いうけ、その夜芝増上寺内の念仏堂当照院に葬った。
忠八は引き廻しの上獄門、手代以下五人は放免となったが、主人庄三郎は家事不行届きで江戸払い、内儀おつねは遠島となり便船を待って十一月十三日に三宅島へ送られた。それから二十年、延亭二年(一七四五)ご赦免となり、南新堀二丁目兵衛方に引き取られ
八十一才で死んでいる。遠島までされた凶状持ちがよくも長生きしたものと評判だった。
江戸をお構いになった庄三郎(市兵衛)は、郷里の沼田在小川村に帰り、お熊供養のため嶽林寺に念仏堂を寄進したが、世の人はこれを「お駒堂」とよんでいる。
庄三郎は元文元年(一七三六)五月三十日に死亡した旨、嶽林寺の過去帳で明らかである。
この一連の事件は、安永四年(一七七五)九月九日、境町の繰り人形豊竹新太夫が脚色し「恋娘昔八丈」と題し、薩摩外記座で興行したところ大当りだった。
芝居ではお熊をお駒と名を変え、白子屋が城木屋となっている。
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