群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地

関越自動車道月夜野インターチェンジより新潟方面(国道17号)へ数分
信号右折で駐車場
国道右側に無料駐車場有り(約30台程度の未舗装)
名胡桃城址案内所「名胡桃倶楽部」
飲食店無し(近隣に数件・セブンイレブンなど)

案内所脇の舗装駐車場 10台程度

名胡桃城址案内所:9:00〜16:00
ボランティアガイド:受付10:00〜15:00

喫煙場所あり

5代目沼田城主真田信澄(兵吉)が幼少時に過ごした小川城跡(上毛高原駅)まで10分弱
 
 
名胡桃城址(群馬県指定史跡)は現在の群馬県利根郡みなかみ町下津の東端にある。

三方を絶壁に囲まれた天然の要害で、推定400年前、荘田城主 沼田氏五代上野介景繁の子 勘解由左衛門景久が築城し、その三男をして城をまもらしめた。これが名胡桃城初代城主 名胡桃三郎景冬である。

荘田城 沼田市井土上町388
沼田氏発祥の地である。天慶(てんぎょう)3年(940)に、利根氏は平将門討伐戦に加わり、戦後、平氏一人を伴って帰り、井土上の和田に館を建てて住まわせた。その子孫の経家以来、庄田(しょうだ)氏・沼田氏を称した。
経家と孫の大友能直(よしなお)と重縁の三浦氏が北条時頼に亡ぼされた際、一族の一人が逃れてきて、沼田景泰と称し城郭を築いた。
小沢城に移るまでの8代158年間の居城であった。往時は城跡外に荘田沼があり、幾多の物語を伝えている。
現在は本郭(ほんくるわ)跡に八幡宮がある。
沼田市公式ホームページより引用

以来、この城をめぐる攻防の歴史は利根沼田の郷土史はおろか、日本の戦国史においても重要な関連を持つ。

沼田氏12代顕泰にいたり、内紛の騒ぎに乗じ、上杉、北条の二氏が沼田の城をめぐり争奪戦を開始する。その両雄の虚を突いて武田方の武将 真田昌幸が倉内城(現沼田城)の出城ともいうべきこの名胡桃城を奪取する。

真田昌幸は信州上田の城主となり、吾妻の岩櫃城を叔父の矢沢頼綱をして守らしめ、更に新しく入手した名胡桃城は、沼田氏の家臣で現在は真田氏に従属せる鈴木主水重利を城代とした。

この頃、利根川を隔てた沼田の城は北条氏の領有するところとなり、城代として猪俣範直が守っていた。

北条方は謀略によって鈴木主水をおびき出し、その留守を狙って名胡桃城を陥落せしめた。鈴木主水は、これを恥じて沼田鍛冶町の正覚寺において自刃し、主君真田昌幸に詫びるのである。

以来ここに400年余、不思議とこの城址は殆ど原型のまま残っている。

遺構は馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城で、両側が切り立った天然の要害である。近年の月夜野町教育委員会による発掘調査で、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されている。廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている。
ウィキペディアより引用

春先には、入口付近に菜の花が咲き乱れる。

入り口付近の案内板より

城跡を奥へ進むとGWの頃には様々な花が咲き乱れていて、とても美しい空間が広がっている。
 
 
般若郭


(写真解像度6000×4000)

般若郭は、主体となる郭の連続部の西側に位置し、独立する小さな大地を堀切で区画していて、長さ約85m 幅約56mで名胡桃城のうち一番大きい郭です。ここは屋形跡として、築城以前から存在していたかもしれません。
 

(写真解像度6000×4000)


(写真解像度6000×4000)
  
 
 馬出し


(写真解像度6000×4000)
 
 


 
 
三の曲輪


(写真解像度6000×4000)

 
二郭南虎口(にのくるわみなみこぐち)


(写真解像度6000×4000)

 
二郭


(写真解像度6000×4000)


 
 
本郭


(写真解像度6000×4000)

本丸のあった場所に建つ名胡桃城址碑は地元の安山岩を使用。碑面は自然のままで無加工。
 
 
ささ郭


(写真解像度6000×4000)


 


  
 
冒頭のシーンは名胡桃城址で撮影されました。