十一面観音像と太刀 銘備州長船基光
沼田文化財めぐり その二
●十一面観音像 群馬県指定重要文化財
住所地 沼田市柳町三光院観音堂収蔵庫
指定 昭和二十九年三月三十日
管理 沼田市
木彫、奇木造、百八十四センチの立像で運慶作と伝えられる。
足利四代将軍義持時代、小沢城(薄根中学校の東)に在った沼田氏八代上野介三郎景朝が、応永十三年(一四〇六)に群馬郡小窪(国分)の村上出羽守を討った際に戦利品として持ち帰って、発知の天照院に祀り、以後沼田氏の護理として尊崇されていた。
その後沼田十一代泰輝が、幕岩城に移住していたころ、即ち永正十七年(一五二〇)にこの観音像が盗まれたことがあった。幸いにも夜まわりの三木兵衛なる侍が発見して奪いかえし、今度は寺久保坂中段にあった熊野坊に安置することになった。
天文元年(一五三二)鞍打城が完成した際、新城の護りとして熊野坊及び観音像を現在地へ移し「三光院」と称する。
くだって真田五代伊賀守信直は寛文三年(一六六三)病気に悩みこの観音に平癒祈願をしたところ全快したので翌四年観音堂並びに石燈篭二基を建立寄進する。後に信直は道路をへだてた常楽院(現在歓楽院)へこの観音を移そうと思い三光院住職広海に献上を求めたところ広海がきき入れなかったので立腹し、新たに常楽院大観音堂を造りその本尊として京都より千手観音を求めて祀り、なおも以来ことごとに三光院に対して圧力を加えたという。
後年この十一面観音は妊産婦の信仰対象となり、かつては非常に賑わい、旧三月十八日の祭り日は、鍛冶町正覚寺の百体観音と共に参詣の人が本町通り材木町と引きも切らなかったが、いつしか観音様のお祭りという正覚寺が代表する様になってしまった。
昭和五十年十月十六日、堂の裏手に新築された収蔵庫に移され、今後は文化財として安全に管理されることになった。惜しむらくは破損が甚しく、やがては大修理が望まれる。
●太刀 銘備州長船基光 群馬県指定重要文化財
●刀無銘(伝長義)
所在地 沼田市下之町三〇七一番地
指定 基光……………昭和三十四年八月五日
伝長義…………昭和三十七年二月二十一日
管理 所有者 勃使河原邦三郎氏(二件共)
下之町滝坂の途中で歯科医院を開業している勃使河原氏は、沼田における最も輝かしい伝統をもち、遠く真田時代より郷土史上にその名を残す名家の末裔である。
邦三郎氏秘蔵のこれら二振の太刀について一日その由緒を聞くことができたので以下紹介すると、基光作の刀の長さ二尺五寸一分、反五分、杢目交じり、地景よく入り、地沸(ぢにえ)細かについて、刃文、小互(ぐ)の目乱れに肩落し、映(うつ)りがない。尖刃等の変化があり、匂勝ちであるが、沸つく。●(金偏に亡)子乱れ込み、突きあげごころに返るとある。専門的な術語が多く素人には誠にわかりにくいが、遠く南北朝時代康永年間(一三四二~一三四九)の作という。
基光に関する限り在銘の作は誠に少く全国で二件程度とか、その意味でも国指定に値いする名作逸品である。
この太刀は紀州大納言治貞襲封の節、十代将軍家治が引出物として贈ったという由緒があり、安永五年(一七七六)卯月三日付の本阿弥家の折紙も現存している。
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