前号に勝善寺由緒を述べたが、現在沼田市文化財に指定されているあの壮麗なる宮殿造りの本殿は、同寺十代住職慈豪の発願によって建立、そして明治にいたり東禅寺本堂となったのである。慈豪という僧は仲々の逸材であるがこの人の伝記についてはあまり知られていない。

話はややそれるが昭和十三年に坊新田町の郷土史研究家清水源三郎氏(江東と号す)が「北毛の史跡と伝説」と題する研究書を出版された。

この中に今は故人となられた材木町舒林寺住職天野延秋師が「釈慈豪小伝」なる一文を寄せられている。

上梓以来半世紀経った今日、この書物も殆んど残存していないので、この際「釈慈豪小伝」の概略を紹介して置くことも大切と考え、ここに勝善寺と関連しつつ綴ってみよう。

昨昭和六十年秋に市教委及び関係者の方々相集い、東禅寺(かつての勝善寺)の調査を行ったが、その際勝善寺時代の住職の名前が判明した。

初代 会空(えくう)

二代 宥順(ゆうじゅん)

三代 承順(しょうじゅん)

四代 嬾桂(らんけい)

五代 秀範(しゅうはん)

六代 恵海(えかい)

七代 智海(ちかい)

八代 謙海(けんかい)

九代 謙教(けんきょう)

十代 慈豪(じごう)

十一代 慈統(じとう)

十二代 慈成(じせい)

十三代 慈田(じでん)

十四代 慈孝(じこう)

以上で勝善寺は廃寺となる。

右十四人の住職の中、十代慈豪が数数の逸話を残している。以下天野延秋師の研究による「慈豪小伝」の概略を記してみる。

釈慈豪は、字は道海と呼び自ら空如と号す。

寛政四年(一七九二)正月二十一日近江に生る。母が一夜夢を見て懐姙したという。その夢とは、母が裁縫していたところ一老僧が来り部屋に入って「わたしはあなたの腹を借りる」とばかり直ちに膝に上った。母は驚いた瞬間夢よりさめた。翌朝夫にこの話をすると「それが正夢ならば生れ出る子は必ず男子であろう。出産の後はやがて仏門に入れよう」と答えた。不思議なことに出産までに数回老僧が夢枕に立ったという。

やがて誕生したのは予言の通り男子であった。この子赤坊の時より乳を好まず、普通の子とは異なっているので近隣の評判の的だった。

十一才の時慈延という僧に師事し仏門に入る。四年の後師に死別し、以来江戸へ下り東叡山寛永寺に入って修行を重ねた。

文化十三年十月、慈豪二十五才の時、上州沼田城内愛宕山勝善寺謙教の後をついで十代の住職となる。それより土岐八代頼潤、九代頼功の二代に仕える。

この間文政十年(一八二七)浄財一千二百両を集めて、今日に残る本殿を完成した。

天保五年七月(一八三四)僧侶仲間の懇請によって再び江戸へ出向し普門院の住職となる。入山後九年にして隠居となり悠々自適諸国を遍歴するのであった。

一方沼田における勝善寺にあっては十二代慈成が亡くなったが事情がありなかなか後住がきまらない。そのため慈豪は先の関係もあり看過できず再び入寺して寺務をつかさどること十一年、慈田が十三代の住職となるに及び、藩主土岐十一代頼之より隠居料二人扶持を賜って硯田の自性寺に隠居する。時に七十一才であった。

文久三年(一八六三)十二月弟子の慈孝が勝善寺十四代の住職となるが、慈孝は老師が次第に老衰するのを案じ、寺の後庭に簡素な隠居所を建て慶応二年(一八六六)老師の身柄を引取り日夜給仕することにつとめた。

慶応四年五月下旬より慈豪はめっきり弱ってきた。ある日慈孝を呼んで「私の命は最早いくばくもない。願わくば先輩又は高徳の人に関係ある日に死にたいと思う」ともらすのであった。

二月十七日、実情を察した有縁無縁の人々が集り、弥陀の尊像を掛け香花を備えて念仏読経を始めた。

翌日になると慈豪自ら命運を知ったのか手を洗い口をすすぎ尊像を拝し唱名の後、斎飯をそなえしかる後枕を西にし「皆さん私と一緒にお経を唱えましょう」と念仏三昧に入りその夜おそくなって静かに瞑目した。

慶応四年二月十九日寿齢七十七才にして波瀾の生涯をとじた。

以上が慈豪伝の大略であるが、多分に伝説的な内容を含むとはいえ、一応慈豪の人となりをよく伝えている。