4凶作(きょうさく)

農作物が天候等の変化により、実らないのが「凶作」であり、そのため食べものがなくなり飢えるのが「飢饉」である。「凶作」になる場合は干ばつ、冷害とあるが、当地方では夏冷しすぎ実らない「冷害」が中心であり、しかも広範囲に及んだ。

封建社会では領主が食糧を統制しており、その上領地が入りくみ、交通の不便もあり、融通し合わぬ政治上の体質も加わり、被害は深刻さを増すのであった。

一、ききん

(1)戦国

新町星野長左エ門記録に「天正六年(一七七八)此秋凶作、七年春ききんにて餓死多くあったという。九年又凶作也という」とある。

天正八年真田勢が沼田に進出してからの十年間にこの地は戦乱にあけくれた。戦国時代の領地争いは城を攻める前に、敵の食糧を断つことからはじまる。沼田城をめぐっての攻防戦は北条勢によって周辺の農村は手ひどく踏み荒された。特に敵地との界目にあたる地域の農民はひどい目に合わされた。

加沢記に「近年北条御出馬にて民悉困窮、就中、界目之農業可仕付様なく、大半餓死に及びければ…………中略…中山の城の、赤見山城守、去る午年(天正十年)より在城して川田表へ人数出、早苗を踏散、麦作を刈りければ民安堵の思を不成、餓死する者多かりける。」とある。

秀吉の北条攻めにより天下統一の業成り、天正十八年(一五九〇)初代沼田城主となった真田信幸の第一の仕事は疲弊した農村の復興にあった。

(2)真田伊賀守延宝の「ききん」

前記長左エ門記録に「延宝八年秋凶作にて、九年春甚飢饉にて餓死道路に横り候云々」とある。

延宝八年(一六八〇)は大雨が降り続き凶作となった上に、江戸両国橋の用材を請負った伊賀守は、大木を奥地から伐り出すため多数の農民を動員するという二大ショックのあった年だ。

この年の戸鹿野村の「年貢割付状」を見ると

田は検見引として三割引
畑は風雨損亡引として四割引

となっているし

一方山村の穴原(利根村)では、風雨損亡引 六割四分 

とある。

大増税で悪評高い伊賀守でもこの様な減税措置を講じている。しかもこの数字は後年「お助け縄」と世に言われる貞亭の検地年貢と大差ないが「ききん」年の年貢が後の平年と同じでは百姓はたまったものではない。たちまち困窮は極限に達する。

やがて両国橋用材到着遅延が直接の原因となって真田家は断絶するが、家臣加沢次左エ門が代官に報告した「沼田領及困窮村々吟味之事」には「山間部四十二ヶ村、人数三千五百八十八は半分が餓えに及び、中関村十七ヶ村二千六百七十人も半分餓えに及び、残りの平地村三十数ヶ村も段々餓え申すべく、特に旧赤城根村の地域は残らず餓えに及ぶ」とある。

茂左エ門の訴状といわれる文書の内容の様な悲惨な状態だった。大暴風雨による凶作と、人災による飢饉のダブルパンチに襲われたのである。

(3)天明の飢饉

年貢割付状の減税措置は延宝以後もしばしば見られるが、天明の飢饉は最も苛酷であった。

天明三年(一七八三)は天候異常で冷気が甚しいところへ浅間山の爆発が四月から始まり

降灰が続いた。

七月八日の大爆発は特に規模が大きく、泥流が吾妻郡鎌原村を埋めつくし、吾妻川は大洪水となり流域に甚大な損害を与えた。この時の爆発は世界的に天候に影響があったという。沼田地方は前からの冷害と、今回の降灰によって大不作となり大飢饉を誘発した。

この時の状況につき、年貢割付状から考察すると、月夜野辺では半減されているが沼田辺では二割引になっておりそれほど深刻とは思えないが、奈良石田家聞書には「藤原、東入に餓死あり」と記されてあるという。

続く天明四年の川場門前組「飢米割渡帳」には

十七戸三十九人に五升位の麦と七百文を渡すとあり、数年後の天明七年萩室の「飢人書上帳」には

食物御座無者二十九人

と記されてある。

高山彦九郎「北上旅中日記」は天明五年、新田郡から利根を経て大原(利根村)の金子重右エ門を訪れた見聞記であるが、それに「利根では人の減ずる事七、八十人、餓死四、五十人とも六十人ともいう。

沼田山中、去年飢饉の節、餓死あらぬ里もなく、別して腰本村(片品)など小児を多く川に流し…………大原では餓死とてもなけれど、累年七、八人の出当年迄二人、累年死亡七、八人なるに、失せたる人甚だ多しと金子氏語り………」とある。

東北地方が特にひどく、会津では五十才以上と子どもはあらかた死亡したという。この地方の餓死の程度は不明であるが、おそらく老人と子どもは栄養失調で多く死んだのであろう。

天明年代の供養塔は実に多い。一家残らず死に絶えた家には墓もなかろうが、園原(利根村)に現存している墓誌台帳の統計によると

天明元年………二

〃 二年………四

〃 三年………九

〃 四年………一〇

〃 五年………四

とあり、明らかに飢饉の三年と四年が多い。出産数で見ると大原では四分の一に減じているが、おそらく他村もこんな状態だったと思われる。そのため当時の人口は激減している。

(4)天保の飢饉

前期天明と並ぶ大飢饉は天保七年(一八三六)を中心とする飢饉であった。

天保四年から八年までが天候異変による大凶作となった。七年の如きは六月になっても袷、綿入れをまとうありさまである。このように連年にわたる不作のため備荒用の食糧も底をつき全国的に餓死者が続出したのである。
沼田土岐藩の年貢を見ると、この大凶作なのに平年と同じ割付をしている。
沼須村阿左見九兵衛の日記によると天保七年は、

大凶作、御蔵米十両に二十俵から十六俵の相場が、当年大違作につき十俵替、
百文につき白米二升八勺
其外諸々高値相成申、四分御上納六分御拝借内二分御引、返納の儀は十ヶ年賦

とある。四分作の凶年に税が四分、減税でなく貸付の方法をとり十年間に返すことになっている。

天保の飢饉は新橋の長左エ門日記、沼須の阿左見日記、下久屋の倉品日記、奈良の石田日記、下津の内海日記など多くの人が其の実状を書留めている。

内海弥平次日記(桃野村誌)には

藤原(水上町)で餓死者二十人もあり、夜後橋で稗を七升配ったが力がなくて運べない者が多かった。

と記してある。特に七年十二月二十七日の記事には

利根郡村々救穀受取飢人四千人余、戸鹿野橋から子ども二人川に投げ親も身を投じた。

という痛ましい事実が見られる。

この頃月夜野小野善兵衛は、大量の麦を供出して救済にあたっている。村々の郷蔵は開かれて貸し与えられたが一人一日一合で、五十日分位だった。このように八方手をつくしたものの連年の凶作で手段はつき餓死者続出という最悪事態となる。

注 郷蔵(郷倉)
各村で備荒用食糧を保管しておく土蔵、以前は各所で見られたが近年殆ど解体され、又は改造されてしまった。

倉品日記(天保八年二月の項)
此頃の夫食
ところ、くず、わらび、なづな、おんばこ、たんぽぽ、かんそう、松、わら餅、野ごぼう、ごぼう葉、芋の葉、ならのしだ
この外に、がんくい飯、大豆の葉、こぬか、ふすま、麦ぬか、
飢人、餓死村々にあり

石田日記(池田村史による)
夫食悪しく、みちぐそ、野ぐそ甚だ多し、
わらび、ところ沢山食し候者は厄病をやむ
そばのこなしかす、粟のこなしかす喰い候者はふんづまりで甚だ苦しむ。
朝夕夫食悪しき故、こやしたまること甚だ多し
右の通り難渋につき、正月は年札もなく、稗かき、豆めし、がんくいめし、そうめん、わらび、ところ等何でも夫食いたし申候

注 夫食(ぶじき・ふじき)
江戸時代、農民の食糧とする米穀のこと。食糧、食物のことをいう。

横塚村の稗拝借人を見ると村の半数位である。奈良村では田方年貢二十両上納、稗拝借四十戸とある。

下発知村の訴状には(天保八年)九十五百人が四十戸五十人となり、死失、欠落、退転にて絶家に相成とある。だが下久屋では、天保五ー九年にかけて僅かに一戸減、人口は変らずである。

上久屋下組の出生の年平均は七、八人だったのが天保七年は二人に減じている。上沼須の墓石統計から見ても天明から弘化にいたる六十七年間は年平均三基で、天明、天保の飢饉期においてもさしたる異動はない。

こんな点から推察すると沼田近在では餓死者までにいたらなかったのであろう。
 
 

沼田万華鏡より