2、年貢(ねんぐ)

土地は領主のもの、その土地を耕している百姓は領主に「みつぎもの」として年貢を納める。
これは「さしだす」のであって百姓のためには雀の涙程も返ってこない。取られっぱなしである。

一、年貢の決め方

(1)御検地水帳==土地台帳

徳川期の沼田藩土地台帳は真田伊賀守改易後、高須隼人が貞亭三年(一六八六)行った検地帳である。
これによると、田畑を六尺一分の間竽で測り、三百歩を一反とする。今日の一反より九坪広い。
田畑を等級づけして次のような「石盛」をする。

上田    一二斗

中田    一〇斗

下田     八斗

下々田    六斗

上畑    一〇斗

中畑     八斗

下畑     六斗

下々畑    五斗

山下々畑   三斗

屋敷    一〇斗

こうして村の合計を出す。これが「村高」である。

戸鹿野村
五六一石一斗九升六合

同新町
一七〇石六斗五升一合

沼須村(上沼須分を含めて)
八七六石二斗三升五合

下久屋村
五六〇石三斗三升七合

横塚村
二四六石三斗七升

計 二七四六石六斗七升百合

この石高は生産量の基準であり、すべての基礎となり、明治まで不変であった。二千七百石の旗本といえば利南地区全体位の領地を待っていたことになるわけだ。

(2)年貢割付

役人がその年の豊凶を見て年貢高を決める。これを「検見」というが検見役人のさじ加減で多少の融通はつくからこれら役人に対する名主の接待は大変だった。
上級官庁の視察に対する下級役人の接待政策は歴史的にも根深い。
名主は名主でその費用を村中に割付けて集める。この弊害を除くため、平均割にして一定額を取るのが「定免」である。田は現物の米を納めたが、畑と屋敷、山林は金納する。

「定免」戸鹿野村の例

上田    六斗一升五合

中田    五斗一升五合

下田    四斗七升五合

下々田   四斗一升五合

上畑    一八九文

屋敷    一八九文

普畑    一八九文

中畑    一六九文

下畑    一二七文

下々畑    六七文

合計

米 五三石五斗七升一合

金 八九両四百三十一文

千文を一両とする。村によって率は多少差があるが、大体検地高の五割で五公五民であった。村高いくら、上田、上畑いくら、年貢いくらと明細を長い巻物に書いて十一月上旬頃名主に渡す。期限は極月即ち十二月十日までであった。

(3)納め方

年貢割付を受取ると、名主は組頭と個々の家に割付する。「名寄帳」という個人台帳があり、その年の率を計算して出す。これが「田畑年貢勘定帳」である。俵は三斗五升だが実例で計算すると「出目米」といって出す。
畑は金納だが、割付は永楽銭何文となる。
日常貨幣は「鐚」である。この関係は鐚四貫文(四千文)が永一貫(一両)であるが時の相場により変化する。永貫を鐚に換算して集める。

(4)雑税

本年貢が国税、市民税であるが他に雑税があった。
上久屋村の例をあげると、百姓林年貢(反一五文)三二八文、漆年貢四九二文、夫銭(夫人の代り)一六八一文、薪役三九六文、鉄炮一五〇文、鴨役一一二文、川場山札銭三六三七文とある。国役銭==幕府の土木工事費、外国使節費などがあった。村によって異なる。

(5)村入用===区費

本税である市民税は一定しれ二百年間変化がない。

武士の月給(年俸)は二百年間同じである。

米は物納だから高価になればそれに応じた収入となるが、畑は金納で二百年間同額を納め、武士は同額の月給が代々続くのであるから物価が高くなれば生活は苦しくなる。沼田藩など陸場だから一層苦しく、下級武士はみじめだった。

百姓から見ると、上田一反一石として五斗の年貢、これは二百文だった。上畑一反二百文だから釣合って

いた。

天保以後インフレとなって、米五斗が三両以上する。畑年貢一反二百文は米代に換算すると二升五合であるから田の二十分の一で済む計算、これでは藩財政は火の車となるのは当然で、その対策として「御用金」という名の献金を命じた。

百姓は年貢を納める以外に、現在の区費に当る「村入用費」があった。年貢は畑中心地では割安だったが、幕末になるとこの「村入用費」は、人夫代を中心として高額になって行く。

沼須の例

年号         経常費一石当  総計一石当

安政五年(一八五四)    八九文

万延元年(一八五〇)   一〇七文 

元治元年(一八六四)   一六四文   一貫二六一文

慶応三年(一八六七)   三一四文   二朱二八五文

明治元年(一八六八)  二七七二文 一両三朱一一五文

沼須の年貢は一四二両、明治元年の区費は八八〇両で、この実態が村を疲弊させる原因となる。
しかもその徴収方法が、人頭割、石高割で平等だった。十万両の月給取から五万円、百万円の月給取から五十万円税を取るというのは双方半分づつだから一見いかにも平等に見えるが、基礎控除という措置を考えないこの徴収方法は、小百姓を生活困窮におとしいれた。ここから階級分化の傾向が生れ、幕末へと進む。

3、階級の文化

(1)貨幣経済

文化、文政の江戸町人文化最盛期を迎える頃より、農民の自給自足経済も「金」を必要とする時代となる。さて、農家の日常生活に、どんなことに「金」が出たか、

◎弘化二年(一八四五)

十一代家慶の時代

沼田藩では土岐頼寧治世の頃戸鹿野村、徳石衛門の生計記録

・生活費   七両一分一二貫文

・交際費     三分 三貫文

・営繕費   四両三分 一貫文

・その他   二分一朱

とある。

生活費を拾い出してみると

・髪結代   ・取綿

・とうふ   ・元結

・硯     ・紙

・粉糖    ・塩

・茶     ・車搗賃

・菓子    ・薬

・蚕種    ・着物

・下駄    ・煙草

・油     ・しとなわ

・酒     ・まんじゅう

などである。

◎慶応二年(一八六六)

明治維新二年前の頃

上久屋村山王松永権右衛門宅記録

・生活費     六十両三分一朱五百一文

・交際費      九両一朱八百四十八文

・奉賀     七両二分四貫六百八十四文

・貢租  十三両二分三朱二貫二百四十一文

・献金         二百三十一両二朱

・衣類  十四両二分二朱六貫五百九十六文

・無尽      十三両三分三貫五百九文

・利息  十二両三分二朱二貫九百三十六文

・家族小遣          六両六貫文

・日常生活費   九十四両二分七百八十文

・其他      三十五両一朱百八十六文

総計   五百十三両三分三朱三百二十五文

生活費の中心は薬代十七両をはじめとして菓子、砂糖、油、小買物、商店支払などである。
これは大農の例なので、百姓の生活に「金」がかかって来た例としては適当でないが、それでも次第に貨幣経済に移行している状況はしめしている。

(2)村の商人

かつては農村には百姓と坊主しか住まなかったが、次第に商を営むことを警める法令が出ているし、天保十四年(一八四三)戸鹿野村には茶屋二、荒物屋二、桝酒屋一、新町では茶屋二、質屋一、紺屋一とある。
弘化三年(一八四六)横塚の農間渡世する者、畳屋、木挽、桶屋、屋根屋三人、小見世商(ぞうり、わらじ、菓子、果物、塩、茶、ろうそく瀬戸物、刻み煙草)三人、豆腐屋二人、天秤組四人、質屋、古着商など多数の者が商行為をなしている。

商人といえば、沼須村に大豪農でしかも沼田城下随一の大豪商久小林多左衛門と共に「大津屋」と称する店を沼田、前橋、江戸に持ち、江戸大丸呉服店と取引している。
明和三年(一七七〇)の貸滞金が三百両もあり、郡内の村々をはじめ遠く勢多、群馬郡の人々まで借用者として名を列ねている。

(3)田畑質入

田畑の売買は禁じられており、分家も制限されていた。十石以上でないと分家は出せなかったらしい。
土地の移動は「質入」して、「質流れ」の形式だった。
田畑を質にして金を借りる。この場合田畑を渡してその税も払ってもらう。返済できなければ当然相手に渡る。

外に質置小作の形式もある。これは質に出して金を借りるが耕作は相変らず自分で行う。税、小作料も自分で支払う。しかし借入金を支払わぬと流れて相手方へ渡ってしまう。
その間利息は一割払う。

質入金の例(下久屋村)

◎亭保十八年(一七三三)

八代吉宗時代、沼田藩では本多正矩治世の頃

◎慶応四年(一八六八)(明治元年)

区別     亭保十八年  慶応四年

上田一反   一両二分程  二十両程

中田一反   一両一分程  一六両程

下田一反     一両程  十三両程

下々田一反    三分程   十両程

上畑一反   一両三分程  二十両程

中畑一反   一両二分程  十七両程

下畑一反   一両一分程  十三両程

下々畑一反    一両程   九両程

◯小作料

慶応四年 下久屋村

上田一反   米一石二斗  年貢米共

中田一反      一石    ”

下田一反      八斗    ”

下々田一反     六斗    ”

上畑一反      一両    ”

中畑一反      三分    ”

下畑一反      二分    ”

下々畑一反     一分    ”

◯手取額(上田の場合)

   生産額   年貢米   小作料  手取額

自作 一石五斗   六斗         九斗

地主                   六斗

小作 一石五斗   六斗   六斗    三斗

上田は小作年貢共一石二斗だから地主は労せずして六斗収納となる次に畑をみよう。下畑は小作料年貢で二分である。下畑一反の生産額として慶応四年下久屋では平均

麦 六斗

大豆 三斗

である。当時一両につき麦は三斗、大豆は二斗だからこの生産額を換算すると計三両二分の粗収入となる。(下畑の場合)

    生産    年具    小作料    手取

自作 三両一分  永一二〇文         三両三八〇文

地主                       三八〇文

小作 三両一分  永一二〇文  永三八〇文      三両

畑税が安いので畑の小作は有利のようだが、当時米は一両に一斗だから

・自作者

田………九両(三斗)

畑………三両三八〇文

・地主

田………六両

畑………三八〇文(三十八銭)

・小作

田………三両

畑………三両

が手取りとなる。だから地主は田が断然有利であった。

田畑の質入証文には名主の奥印を必要とする。この「質地田畑奥印帳」が現在横塚に部厚く綴って保存されている。これによると

・質入筆数

文化二年(一八〇五)………一一

同十二年(一八一五)………二五

文政八年(一八二五)………三二

・質入面積

文政十年(一八二七)……二〇・八反

天保八年(一八三七)……五五・三反

嘉永元年(一八四七)……三九・一反

安政四年(一八五七)……三四・九反

明治元年(一八六八)……四三・四反

明治二年(一八六九)……七二・六反

右のうち五割は流れて特定の四人に集中している。生活の困窮につれて流地が多く、地主が急速に集中し大きくなった。

(4)大地主

沼須村は明治二年では、三石以下のいわゆる五反百姓が六割をしめ、二〇石以上という豪農が四軒あり、村の構成が上、下に分化されていた。大地主小林多左衛門に代って角田家が抬頭する。文政九年五七石が明治二年には七〇石となるのである。

・下久屋村  石高表

       文化五年 文政十一年 天保五年 弘化二年 安政五年 明治二年

一石以下    七     一     一   五     四   一〇

二石以下   一一    一二     九  一二    一四    九

三石以下    五    一一    一二   六     五    六

四石以下   一六     八    一九   六     五    四

五石以下    九     六     五   四     八    九

一〇石以下  一九    二一    一七  一七    一一   一一

二〇石以下   四     三     五   七     六    七

二〇石以上   一     、     、   、     二    一

戸数     七二    六二    六八  五七    五五   五三

五反以下が五四%、一反以下が二〇%も出て小作百姓に転落して行った。そして大地主が出現する。

・下久屋村  倉品家の場合

宝暦十三年(一七六三)……九石

天保 二年(一八三一)……一二石

弘化 四年(一八四七)……二三石

文久 元年(一八六一)……五〇石

・上久屋村 松永家の場合

貞亭三年(一六八六)……一一石

宝永五年(一七〇八)……二五石

文化一〇年(一八一三)……三六石

文政一三年(一八二八)……四八石

天保一一年(一八四〇)……六三石

明治七年(一八七四)……七〇石

天保を境とした下層が増え廃家が多くなり戸数が減り、その分が集中して大地主が現われた。天保の凶作が農村を変えたのである。
 
 

沼田万華鏡より