沼田藩真田氏に対する印象と三光院
真田氏に対する印象外様大名の一方の雄として声名高かった沼田真田氏は完全に没落した。しかし一世紀近くにわたって領治した真田氏に対する領民の心情は一朝一夕に転換、消滅できるものではなかったろう。
たしかに五代信直の行った水増し検地に伴う増税は、領民の生活に大きく影響し、圧迫をしたことと思うが、真田氏の表高三万石は元々誠に過小評価であり、実収はその二倍はあったといわれている。
信直は三万石を十四万四千余石に拡大しているから、数字的には約五倍となるが、実収が六万石あるとすれば二倍強となる。しかも沼田藩は年貢が他国に比べてはるかに低率であった。
一般的には五公五民
沼田藩は三公七民
とすると十四万四千石に増石しても苛斂誅求という程のことでなかったのではあるまいか。
唯、従来あまりにも年貢率が低かったため信直の増石が深刻に響いたとも考えられる。あえていうならば増石検地による年貢が実は世間一般並となったともいえる。
年貢の増大もさることながら、それよりも信直の事業欲遂行に伴う、夫役(人夫に狩り出されること)の方が農民には強くこたえたのではないだろうか。
信直はたしかに盛んに土木を興した。寺院の建築をはじめ各種の開拓、開発のための工事と治政二十五年の間によくもと思われる程精力的に事業を進めた。その中には現在にいたるまで恩恵を蒙っているものも少くない。こうした点を思い合わせるとき信直は誠に積極的な政策の持主だったが、遺憾ながらその行政にはいささか乱脈のきらいがある。
そして遂に没落の悲運に陥るのである。こうした結果を招いた原因には信直自身の失政があげられようが、一面幕府の外様大名対策の犠牲となったことも充分考えられる。
信直を取りまく賛否両論は渦巻くが、初代信幸の善政に対しては何人も異論をさしはさむものはない。沼田真田氏は信幸以来五代にわたって営々と利根、沼田、吾妻の地の経営にわたってきたのである。したがって領民もその影響を強く受け、真田氏に対する印象は、やがて沼田藩主に封ぜられた本多、黒田、土岐の各氏とは何やら異なるものがある。
このあたり、戦国大名と官僚大名とのちがいであろうか。
真田氏に対する印象が強いという例は、信州上田、松代においてもうかがわれる。今日的にいえば、不思議と人気のある大名であるといえよう。
九十一年の長い間、叩きこまれた真田イズムは、一朝一夕に消滅するものではない。
現在の沼田市街都市計画の基礎は遠く真田時代に実現したもの、時代が異なり、政治形態も違う今日とは単的に比較は出来ないが、真田氏の城下町建設に注いだ意欲と努力は誠にすばらしいものだった。
以来ここに三百年、真田氏の残照は未だ消え失せていない。庶民心情と生活の中には自覚するしないは別としてその影響は脈々としている。
沼田藩主は沼田氏、真田氏、本多氏、黒田氏、土岐氏と続くが、ここを祖先墳墓の地としたのは真田氏のみである。この事実が沼田という土地と、そこに住む庶民に強く反映したと見ても決して不思議ではあるまい。
以下、真田氏に関する幻想的な思索を綴ってみよう。ことわっておくがこれはあくまで想像の世界で、決して史実ではない。
真田氏と三光院
過日、柳町の三光院にいって色々と取材して来た。お住職のご厚意によって什物を見せてもらったが、その中の一つに、日光輪王宮から拝領した袈裟があった。それから本堂右手上段の間に三葉葵の紋が画かれた木像(家康公か?)が目にとまった。
いずれも年代的には真田氏よりはるか後世のものと思われるが、それにしても同寺が徳川氏となにやら関係があるような気がしてならなかった。真田時代からこの寺は幕府の密命を帯びてそれとなく真田氏の動静を探っていたのか。いわば徳川氏の隠密の役でも帯びていたとも考えられる。三光院は又、上野寛永寺とも何やら縁故があるようにも聞いた。但しこの話は三光院から出たものではないことをおことわりしておく。
以上の話はいずれも幻想的な物語で、史実とは無関係であることを重ねて付記する。
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