◯大連院についての挿話あれこれ

小松姫の肖像画(大英寺蔵)
輿亡きわまりない戦国の動乱期にあって、よく家を守り、領地の保全をはかるのは安易な業ではない。夫君真田信幸を助けて豊臣、徳川二大勢力の交替という至難な世情を洞察し、道を誤らなかった大連院は一箇の女丈夫であり、烈婦でもあった。

したがって彼女に関する逸話はすくないがその中で最も圧巻、且ドラマチックな話題はかの有名なる関ヶ原の戦前夜における武将の妻としての毅然たる処置であろう。

信幸に嫁して十一年目の慶長五年六月(一六〇〇)のことである。

上杉景勝が居城奥州会津に立てこもり、反徳川の兵を挙げた。

景勝は有名な武将上杉謙信の甥であるが、後には養子となり、父の死後豊臣秀吉に協力して天下統一の業を助け、その功により家康、前田利家につぐ全国第三位の百二十万石という大々名になっていた。

秀吉亡きあと、一躍声望の上がった五大老筆頭の家康対して快く思わぬ者に石田三成があり、又上杉景勝があった。

当然そこに考えられるのが両者の密約で、時期を見て景勝が会津で挙兵し、それを討つため家康が東国に向かった隙を三成が関西で兵を挙げ、東西からはさみ撃ちして、もって豊臣家の声威を挽回しようという計画である。

慶長四年、景勝は会津においてやがて起きるであろう家康との決戦に備えて、築城工事、国内防備の突貫作業を始めた。

これを見てひどく神経をとがらせたのは家康である。早速使を遣って詰問したが、景勝はかねてよりの計画に基づく仕儀であるから一笑に付してとりあわぬ。

激怒した家康は直ちに諸大名に対して会津征征伐の命令を発し、自らも六月十八日伏見を発し早くも七月二日には江戸へ入城した。

期いたれりと上方では石田三成が動き出し毛利輝元を総大将として家康に挑戦状を発すると同時に秀吉恩顧の諸大名に檄文を送って協力を求めた。

この頃家康は江戸を出発し、栃木県小山まで兵を進めていたのであった。真田昌幸(上田城)、同じく信幸(沼田城)等はそれぞれ家康の命により会津討伐の軍に加わるべく兵を佐野犬伏の地まで進めていた。

この時である、一つは家康のもとへ上方より「石田三成、叛旗をひるがえし、家康の留守居役である鳥居元忠の守る伏見城を攻撃す」更には真田昌幸のところへは石田三成よりの密旨、「我ら豊公の恩顧に報居るべく打倒徳川の兵を起した。貴公の三人を懇請す」の飛報がもたらせられた。

この夜昌幸の陣において、長子信幸、次子幸村の三人の間に大激論がかわされ「秀吉公の恩誼に対してもこの際敢然と石田方につくべし」「いや関西における挙兵は三成の個人的策謀によるものである。天下の趨勢は徳川氏に向かっている現在、進退を誤まると真田家滅亡の危機を招く。断平徳川氏を支持すべきだ」甲論乙駁、夜を徹して論じたが遂に一致点が見出されなかった。

やがて長考の末昌幸より「この上は各自、思うところに従って身を処することにしよう。肉親の情は敢えて問うところではない」との断が下され、翌日は直ちにそれぞれの行動が開始された。

父 昌幸、弟 幸村 関西石田方につく

兄 信幸 関東徳川方につく

今や真田氏は完全に二派に分れた。昌幸、幸村は直ちに兵をまとめて赤城山を超えて、沼田の城をめざして進発した。その考えるところは、今より遠く信州上田に向うにはとうてい事態の急に間に会わぬ。とりあえずは沼田の城に立てこもり徳川方に対抗しようとする戦略にあった。

片や家康にあっては景勝より遠く関西における三成の挙兵を重視した。そこで次男の結城秀康に兵をあずけ、宇都宮城に拠って上杉のおさえを命じ、更に伊達政宗と山形の最上義光に命じ会津の背後を牽制させ、おのれは江戸より岐阜の関ヶ原へと直行することにした。

徳川方に加担する信幸は当然父、弟と袂を分って家康に随って江戸へ向ったのである。

さてこの時夫信幸の留守をあずかり沼田の城にあって大連院夫人はどう処置したか?、

昌幸、幸村父子が沼田へ到着した時点にあって大連院の知る情報は、

・関西において石田三成が兵を挙げたこと

唯これだけで、遠く下野にあって父子袂を分った事情は全然関知していなかったのである。

遠路下野から夜を日についで行軍してきた昌幸の軍はたしかに疲れ切っていた一刻も早く寸時でもよいから足腰を伸して休みたかった。そこで昌幸は三の丸に住む弥津志摩守の屋敷へ入り、志摩守の妻女をして城中の大連院のもとへこの旨うぃ伝えさせた。

驚いたのは大連院である。様子を聞けばわが夫信幸は同行していない。第一奥州征伐もまだ解決していないのにどうして二人の軍だけが沼田へ引きあげて来たのだろう。賢明な夫人はおぼろげながらある事情を察知した。そこで「わが夫信幸はどうなされましたか。又、奥州方面の戦いはどうなったんでしょう」と問いただすと、「いや奥州征伐は一時休戦となった。信幸は唯今江戸へ向かって無事進んでいるし、いずれ知っての通りの事情で多分そのまま沼田へ帰らず関西へ赴くことだろう。それによってわれらもそちらへ向うようになるが、何しろ疲れているから信幸の知らせがくるまで休息させてほしい。」というまことに歯切の悪い返事がかえってきた。

しかし、それならそれで信幸から何らかの通報があってしかるべきだ。徳川と縁のつながる夫にして見れば家康に随行するのは当然だろうが、不思議や昌幸、幸村は全然行動を異にしている・・・・・・・・・・・・・・・。さてはと気づくのに時間はかからなかった。「これまでの長旅、さぞかしお疲れのことはよくわかります。なれど夫よりは父上をおとめ申して接待せよなどの連絡は全くありません。もしも父上の申されることが真実ならば必ずやその旨を誰か家臣を通じて私共に指示がある筈でございます。指示さえあれば快くご饗応申し上げますがそれのない唯今であって見れば入城などもっての外、どうか城外でお休み下さい。たって入城されるなど申される節は、たとえ親御様でも一矢報いる所存でございます。」と昌幸へ申し越すのであった。

大連院は今や決意を固めた。舅、及び義弟は明らかに夫と袂を分ち石田方に加勢し、留守の手薄に乗じて沼田城を乗取る肚であることがひしひしと感じられる。

直ちにのろしはあげられ、早鐘は突かれた。居残る僅かの将兵は急報に接して急ぎ城に集まってくる。大連院は早くも緋おどしのよろいに身を固め、長刀を小脇に大書院に諸兵を集め、「このたび舅昌幸殿はご案内もなしにこの沼田城に籠城されようとうかがっている。お前達は留守をあずかる者として一死もってこれを阻止すべきである。わたしもかなわぬ時は自害しても戦う所存、事態急を要するから直ちに妻子共々のこらず城へ立てこもるよう手配しなさい。」と厳然と命令するのであった。のろしを見て驚いたのは武士だけではなかった。近在近郷の郷士農民まで「すわお城の一大事」とばかり、ほら貝を吹き、松明をともし続々と城の周辺に集まってくる。

大連院の返事に接し、なおもこの大騒ぎを見た昌幸は、さすがに名将であった。にこにこ打ち笑いながら傍の幸村に「武士の妻たるもの、誰もこのようにありたいもの、さすがは本多忠勝の血を引く女丈夫、信幸にはすぎたる妻女ぞ。」と語り、夜が開けると共に兵をまとめて吾妻から信州へ向って出発したという。

昭和五十一年歌手三波春夫氏はこの話に接し感動のあげく自ら作詞、作曲したのが、「沼田城物語」という歌謡浪曲で、これはレコードに吹き込まれ現在市販されている。しかし内容は多分に脚色されてあるからそのつもりで聞く必要がある。

沼田万華鏡より