真田昌幸
北毛の要、沼田鞍打城は今を去る四百五十年前、沼田顕泰によって築かれた。以来この城をめぐる争奪戦は上杉、北条、武田の諸将によって激しく繰りひろげられたが、豊臣秀吉の天下統一に伴い武田の遺臣真田昌幸の手にゆだねられることになった。

昌幸は沼田入城後いくばくもなくしてこの城を長子信幸に譲り、おのれは信州上田の城主として大いに武威を輝かした。

伊豆守信幸は過ぎし日幾多の一族郎党の血によって彩られた利根沼田の地に対して、一意専心善政を施しこれが隆盛をはかったが、時世の推移と共に、あるいは上田に、更には松代にと転封を命ぜられ、遂に万治元年、九十三才にして松代において天寿を全うした。

その信幸の生涯にわたり陰に、陽に信幸の偉業を支えて内助の功をあげた夫人大連院も、戦国時代に咲く一輪の名花として今日まで多くの語り草を残している。
 
 

信幸夫人大連院(小松姫)の生い立ち

小松姫の肖像画(大英寺蔵)
大連院夫人は徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の娘として天正元年(一九七三)に生まれ、幼名を「稲」(亥子)といい、長じて、「小松」と改めたという。

天正元年といえば織田信長が浅井、朝倉と戦い、諸国には上杉謙信、武田勝頼、北条氏政等に文字通り戦国時代の末期であった。

本多忠勝の血をうけてか幼いころより才気すぐれた小松姫はやがて徳川家康の養女となるのであるが、忠勝の妻は家康の長男信康の女であるから血縁的にみると小松姫は家康の曾孫にあたることになる。

戦国時代は往々にして政略遂行のため女をその具とする関係上、利発な娘は幾人いても差支えない。むしろ手持が多いほど権力者は姻戚関係を広げることが出来るというもの、正に結婚まで権力保持に利用されていた。

こうした閨閥づくりはなにも戦国時代ばかりではなく、現代社会においても堂々と行われている事実は誰もが認めよう。

「稲」はしたがって家康の曾孫であり、又養女でもあるという複雑の関係におかれるがやがて長ずるに及び徳川氏の宿敵真田氏の御曹司信幸のもとに嫁ぐのである。正に政略結婚の代表的な一例といえよう。こうして運命は戦国時代における名家の女性の誰もが負わされている宿命であったのだ。

はじめ浅井に嫁ぎ、後に柴田勝に身をまかされた信長の妹お市の方、家のためといいふくめられ泣く泣く輿にかくれて小谷の城に行ったのは何も知らぬまだ花はずかしい十五の歳出会った。

このお市の方と浅井長政との間に出来た三人の娘の中、長女が後の淀君であり、三女は二代将軍秀忠の妻となりやがて家光を産む幸運に恵まれる後日譚は周知のことである。

それにもまして悲惨な話は、わずか八才にして豊臣秀頼のもとに嫁がせられた秀忠の女徳川千姫であろう。姑はわが母の姉にあたる淀君であるが、この叔母は年端もゆかぬ姪を、いじめていじめていじめ抜いた。それも姪の背後に眼を光らせている狸親爺家康に対する敵がい心からで淀君もまた豊臣家を思う一筋に燃える女心の執念であったのだ。

くだっては明治維新の前夜、勤王だ佐幕だと世論真っ二つに分れ、未曾有の擾乱にあって、一つの妥協策である公武合体論の犠牲となり、はるばる中山道をくだって江戸の将軍家茂のもとに嫁がされた、時の帝孝明天皇の御妹である和宮の例があげられるよう。

嫌でたまらなかった東下りを、「国のため」という一言で江戸輿入れを承知したのは、和宮数え十七才の時である。

昔からこんな例をあげれば数限りないほどあったろう。しかもそのひとつひとつは皆、男の権力保持のための犠牲であったのだ。

沼田万華鏡より