二代城主 真田信吉の人となり
二代城主信吉の人となり
真田信吉(さなだのぶよし)は信幸、大連院の長男として文禄四年(一五九五)沼田で生まれ、元和二年に父信幸が上田城へ移封されるに当り、その後を継いで二代沼田城主となったのは二十才の時であった。
若いころより一つちがいの弟信政と共に父に従って戦陣に参加し、真田の武名を辱めなかった。
といっても関ヶ原の戦の時はまだ六才にしか過ぎなかったから勿論出陣というわけにも行かなかったが
慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣
元和元年(一六一五)大阪夏の陣
には二十才であったから弟と共に父に代わって出陣し大に武功を樹て徳川氏のために働いたのであった。
一説によると大阪との戦には信幸は弟幸村、甥大助が大阪方にいたのでこれを討つに忍びす、病気と称して信吉、信政を代理として参加させ、己は出陣しなかったという。万事に思いやりの深い信幸のことであるからあるいは本当だったかも知れぬ。
冬の陣が終って一応和平状態の時、幸村が信吉の陣にやって来たことがある。片方は年こそ若けれ真田家の総領であるが、一方の幸村は叔父ではあるが久しく浪人の身という両者の会見は興味ある一幕であった。
四十八才働き盛りの幸村はずかずかと上座に構え
「お前と初めてあったのは関ヶ原の戦の前で、わしが父昌幸と共に沼田城に立ち寄った時だった。あの時はまだ幼子だったのに、久し振りに逢った現在、仲々の成人振りで感服した。お前の父親信幸殿にはさぞかし年を召されたことだろうが逢いたいものだ。」
と語る。
その時弟の信政がちょうど部屋へ入って来たので
「これなる者は弟で信政と申します。」
と紹介したところ幸村は顔で会釈しうなづくばかりで、後は総領信吉とばかり話しをしているのである。
「叔父上とは思いも寄らず戦う羽目になり誠に心苦しい次第です。しかしあなたも大阪城より離れて誠に妙なところに陣取ったものですね。さぞかし心細かったことでしょう。幸い和睦になったからよかったもの、そうでなければ一挙にやっつけられたでしょう。」
と信吉は元気の良いところをしめすと、幸村は
「いやいや恐れ入った。お前の申す通りだ。しかしそれも大勢のしからしめるところで止むを得なかった。だがお前如きがいかほど頑張ってもたやすくは負けないぞ。わしも天下の真田幸村だ。」
と答えた。
その後は昔なじみの真田の家来と共に色々と昔話しに打輿じ酒を呑んで快く帰ったという。
いささか余談にわたるが両者の会談の裏付となっている当時の情勢に触れてみよう。
関ヶ原の戦いで西軍に加担したため紀州九度山に蟄居を命じられた幸村はしばらくは静観していたが、戦後十四年たった慶長十九年ともなると再び関西方関東方の雲行が険しくなるにいたり俄かに身辺が騒がしくなった。
大阪方ではこの年九月諸国に隠棲する浪人達に檄を飛ばし召集を始めた。豊臣氏と因縁浅からぬ幸村は直ちに大阪入城を承諾し、一族郎党はもとより遠く縁故のある信州、上州にまで密使を送って同志を集めた。
九月二十五日遂に一党を率いて九度山を出発し大阪入城を決行した。ところが大坂城内に於ては、難攻不落の名城をたよりに籠城説が主流をなしていた。特に大野治長等一派は
「敵は数万の大軍であり、殊に野戦にかけては古今無双の家康の指揮であるから城を出ては勝目がない。しかし城に拠って戦うならば百万の敵も怖れることはないし戦いが長引けば敵は兵糧弾薬が乏しくなり、又内応する者も出てこようから苦戦となるのは必定である。仮に和睦となってもこちら側では有利な条件が出せる。」
と主張するのに対し、真田幸村、後藤又兵衛等は
「いかに天下の名城といえども数万の大軍に包囲されては籠城したところで勝目はつかめない。城を拠点として出陣し平地戦で時をかせぐことが肝要である。問題はいかにして時をかせぐかにある。長期戦に持ち込めば必ずや豊臣恩顧の大名も多いことだから、局面の変化も起きるだろう。」
と力説したというが、結局は浪人の説はとりあげられず籠城主義に決定となった。自説破れた幸村は敢えて唯一人城の南、平野口小橋山の北にとりでを構築し真田丸と名づけた。
この真田丸がいよいよ開戦となった時どんなに関東勢をなやまし、大きな損害を与えたかはかり知れないものがあった。しかし城内の主流派は幸村の奮戦とは関係なしに家康の策に乗ぜられて和睦してしまった。
前記の幸村、信吉の話に出てくるとりでとはこの真田丸のことであり、大勢のしからしむるところは治長一派の籠城説をさしているのである。
さて大阪の陣で活躍した信吉はやがて沼田城に帰り、病の父信幸に戦状の報告をした際に
「このたびの戦いに出陣した家臣の中で、鎌原伊右衛門という者が、苦戦に遭遇し自分も深手を負い、家臣も数人まで討死して比類のない働きをしたあっぱれの武士故なにとぞ加増していただきたいものです。」
と進言したところ、信幸は
「苦戦にあっても逃げないのは武士としてあたり前である。なおそれで勝ったというのならともかく、ただ家来を討たれ自分も深手を負ったというだけでは武功とはいえない。若しこのような者に一々加増していたら沼田、上田の知行を皆与えても足りぬだろう。」
とたしなめたという。
とうじ信吉は二十一才の若冠であるから無理もないが、その点父信幸が若かった時は、これとは覚悟がちがっていた。
「父昌幸と一緒に戦っているのではいかほど手柄を樹てても人からは親のおかげだといわれるのが残念だから自分は常に一里ほど先に進んで戦うことを例としていた。」
とあるようにどうやらこのあたり人物的に差があるような感じがするが信吉とても仲々の名君であった。
沼田万華鏡 沼田今昔譚(8)
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